こんにちは、世界放浪2輪旅を目指す管理人です。
京都→島根を経て隠岐へ渡り、まるまる3日間の島生活が終わってしまいました。
中ノ島でのファンダイブに始まり、島後ではウラ杉のルーツとなった隠岐の巨杉に触れ、西ノ島では遠くに海を臨む天空の林道と奇岩を巡りました。
また、旅程全般に渡り古代に渡来人がまずたどり着いたであろうこの地域の神社を脈絡なく訪れ、恵まれた天候のなか野営を楽しむこともできました。
さて、いよいよ今回の旅も後半戦となり 本土にもどってまいりました。
ここからは山陰の海岸線を北上し、可能な限り景勝地を巡りつつ時間オーバーまで行けるとこまで行くという感じでいこうと思います。
境港→出雲大社へ
行きは島根の七類港から出航しましたが、帰りは鳥取の堺港で下船しました。
隠岐、よかった。
さて、本土に戻って、まずは出雲大社を目指します。
最初は隠岐に渡る前に行きたかったのですが、時間的に無理で戻ってから行けばいっか と思ってたのです。
これから海岸線を東へ走ることを考えると、堺港→出雲は行った道をまた戻ることになるので効率悪いのですが、せっかくここまで来て出雲大社に行かないのはないだろうということで、向かいます。
ズドーン。
出雲大社はやっぱ、観光地なのね、近づくにつれ人が一気に増えました。
この写真は木製の二の鳥居で、この前方につづく神門通りの先に一の鳥居があります。
まぁそれは遠いので置いといて、二の鳥居をくぐると、珍しいといわれる下り参道から広大な松の参道へとつづきます。
参道途中にて、「ムスビの御神像」。
向かって右側は大国主神で 左側の玉っころみたいのが幸魂・奇魂という魂が日本海の荒波に乗っかってる様子ということです。
つまり、まだ修行中だった大国主神が魂を授かるまさにその場面をきりとった像というわけです。
大国主神とは、行きの白兎神社でも出てきましたね。
出雲国=現山陰周辺とは切っても切れない神様なんですねぇ。
さらに進むと青銅製の第四の鳥居があり、これを越してようやく拝殿が見えます。
拝殿にて。
特にポーズをとるわけでもなくド派手な世界地図Tシャツで三脚自撮りするおっさん。
セルフタイマー時間をミスると 周囲からの冷めた視線に耐える時間が長くなるので注意が必要です。
出雲大社の代名詞ともいえる極太の注連縄と、出雲大社の社紋 ❝二重亀甲剣花菱❞。
京都から見て北に位置する出雲に、北の守護神である玄武を重ねたことが亀甲の由縁だとか。
この注連縄は 「さぁおれを見に来たんだろ」 と言わんばかりの落ち着きで拝殿に集う観光客を俯瞰しているようですね。
この注連縄は長さ13.6m 重さ5.2t という破格のサイズ感ですが、今まで登場してきた他の注連縄とは、その向きが異なりますね。これは一体なぜでしょう?
出雲大社には、他にも参拝方法などにおいて他の神社とは❝慣わし❞を異にする点があります。なんなんでしょうね。
本殿ですが、このように周囲には背の高い塀があり普通に撮影することができません。
三脚にカメラをセットし、やおら三脚の脚を3段階マックスまで延長、セルフタイマーでシャッターを押したら三脚の末端を掴みストームブレイカーを天に突きさすマイティ・ソーのごとくそれを掲げフリーズ。そんな動作を数回繰り返し、ようやく撮れたのが上の逆光気味でビミョイ写真です。
本殿を真裏より。
現本殿は1744年の建立ですが、創建は不詳。
大国主神が中つ国を譲る交換条件として建立されたという天日隅宮こそが、古代の社殿創建時期といわれえいますが、そりゃいったいいつなんよ?
この綺麗な苔がむしはじめるよりもずっとずっと前のことでしょう。
こちらは境内にあるなにやら少し風情の違う木造2階建造物。正面に切妻の玄関があり、屋根の先端にかけて反る軒反りと相まって千と千尋の温泉宿感マックス。
彰古館という資料館みたいなものみたいで、場合によっちゃあ境内雰囲気に溶け込んでるとか説明されてますが、いや どっからどうみてもミスマッチだろ。
やはり未だ隠岐 焼火神社のアナザーワールド余韻が強すぎ、この整備され過ぎた大社に意味もなく居座る気分にはなれなかった。
早々に参道逆サイドを元に戻る途中、白兎神社で見たのと同じようなシーンの像。
大国主神に助けてもらった白兎よ、あなたは一体だあれ?
出雲大社をあとにし、その参道とほぼ直線状につづく神門通りにて。
先ほどまで沢山いた観光客も、時刻が進むにつれまばらに。
賑わっていた観光地が、気づいたら寂寥としていた時のなんともいえない虚しい感じ それを楽しむ余裕は自分が大人になったからなのか、バカになったからなのか。
そういえばこの日は西ノ島を出てから何も食べてなかったもんですが、
神門通りのお店もほとんど閉まっている中 ぎりぎり営業中だったお店に入って出雲そばとぜんざいなんかを食べることができました。
この日はもうあまり走る気にもならんかったので、せっかくだから観光地出雲にて宿をとることにしました。
バイクの方もいるようでしたが、乗り手さんとは会えませんでしたな。
窓の外でははるか遠くから届いた可視波長の残りものが できそこないのマーブルのような形をした雲をその波長色に染めているではありませんか。
そんなのを眺めつつ、撮りためた写真の整理などをしていました。
出雲~鳥取砂丘へ
翌朝、荷物をまとめて出雲の宿を出発。
この日はとりあえず鳥取砂丘を目指します。
行きの行程で京都→島根へ移動する際も、内陸を通るつもりが途中から海岸線へ出てしまったため 実質同じ道を戻るような形になってしまいました。
まぁでも行きと帰りではなぜか同じ道でも違う景色がみつかるもんです。
鳥取砂丘目前、9号線の浜村海岸にある龍見台になんとなく寄ってみます。
知らずに寄ったのですが、龍見台にはウェーブという喫茶食事店があり、ちょうどお腹もすいていたので唐揚げ定食をいただきました。
どこの商店街にも ここは昭和中期くらいからずっとあるんだろうなぁという喫茶店ってあって、ちょうどそんな感じの雰囲気でした。店内は広く、一画には店主と息子さんがコレクションしたというモンキーやエイプが展示されていて、あ バイク好きなんだなぁ~ とか考えていた矢先、店主がSNS用に写真を撮らせて欲しいと声をかけてくれます よろこんでー。
tea_and_kitchen_wave のインスタより。
そんな感じで、初 鳥取砂丘!
すごい、本当に砂丘だ。
そんな小学生の頃の自分でも言えるような感想しか、まずは出てこない。
砂の源は、中国山地を形成する花崗岩の風化なんだとか。それが千代川に乗ってやってくると。
しかもそれが潮の流れと卓越風の影響でうまいこと一帯に体積するんだそうな。
なんじゃこりゃ、即時重合レジンのポリマーみたいにサラッサラ。誰かがこの砂を固めるモノマーを持ってきてくれたら、すぐにでも歯形彫刻をはじめてしまいそうだ。
出番待ちでアンニュイな表情のラクダと、
親子をフタコブの間に乗せ駑馬の跼躅を披露するラクダ。
砂の上に座り込んで、しばらくは行きかう人々をぼけーっと眺める。
ここが市中の小さな公園であれば通法されるのも時間の問題だが、心配はいらない。広大な砂の上で詳細不明なおっさんがひとり座ってほくそ笑んでいても誰も何も思わない そう、これこそがTPO(?)。
自分と同世代のお父さんが子供の手を引き、その傍らでその様子を笑顔でみる奥さん 的な幸せの代名詞を次から次へとみていると、まぁ自分にもこんなようなパラレルワールドがあったんだなぁとか考えてはしまいます。
人間万事塞翁が馬、出雲大社の糾う縄は禍福の連鎖を想起させましたが、それはそうとも限らないでしょう。
丹後へ
朝はそれなりに早めに出たにもかかわらず、うだうだ走っては止まって写真とって~飯食って~砂遊びして~(鳥取砂丘の砂で遊んではいけません)とかやってると、それなりに日が傾いてきたので、ここからは更に北東方向 丹後半島へコマを進めます。
京都北部の山道は、なんというか 整備された美しさをすごく感じました。
紀伊半島内陸のような粗々しさはなく、どこを走っていても人里から完全に見放された気持ちにはならないというか、
まぁ道走ってる時点でそりゃ当たり前なんですけど。
途中、香美町の黒野神社に立ち寄ります。
鳥居をくぐり石段をあがると
拝殿があり、その奥へまわると
本殿が姿を見せます。
祭神は天津彦火能邇邇芸命、本殿の建立は1765年で、創建は不詳ですが9世紀頃なんでしょうか。
破風は正面から上に千鳥破風が、下に軒唐破風と装飾的で、垂木は放射状の扇垂木、軒下の斗栱もご覧の通りの複雑さで、神社ながらやや禅の色が強いといいます。
社紋である三つ巴を配した神馬像がありますが、どういうことなのかは軽く調べてみてもよくわかりませんでした。
道中 ひまわり&tenere 曇天かよ。
山陰海岸国立公園を左手に眺めながら、丹後半島の北端付近までやってきました。
途中、なかなかの賑わいを見せるオートキャンプ場もありましたが、
誰もいない場所を探し、本日の野営地を定めます。
もっと先の方まで行こうとして、砂でスタックして諦めて引き返しました。
今日はまぁまぁよく走った。だいたい320kmくらいだろうか。
若狭湾に入っては押し出される波の音を聞きながら、満員電車にぶち込まれては押し出されていくラッシュアワー出勤戦士に思いを馳せて眠りにつきます。
最終日 まずは伊根の舟屋群に
朝、天気はどっちつかずですが、まず雨は降っていません。
まさにバイクツーリングというのは、最高にコンパクトな動く城なんだと思います。
隠岐で買ったお湯をいれるだけでしじみわかめ汁ができるやつ。
ちょっと海岸を散歩します。 ヒナギクの群生。
そして野生の自動二輪が行って諦めて戻った痕跡。まだ新しい。 あ、おれか。
こちらは間人皇后=聖徳太子のお母さんと、聖徳太子の像。
明確な史証はないものの、間人皇后が蘇我氏と物部氏の争乱を避け丹後に身を寄せたということで、日本海を望むように像がたてられています。
海岸の先には、京丹後の山陰ジオパーク代表選手である立岩があります。
高さは20mにもなる一枚岩で、良く見ると縦上に筋がみえるのは柱状節理という現象です。
もはや用途を忘れ海岸の一部へとなる途中の水場と
ここいらでひそやかに繁栄するコバネイナゴと
ウラナミシジミ。
しばらくはゆっくりして時間を浪費します。
制限時間さえなければ、こんな感じで同じ場所に何日か居座ったっていいんだよなぁ。
鍛造ペグは確かに重いのですが、このような砂利地でも小さな石を砕きながら容赦なくペグダウンできるので、やはり管理人的には重量を犠牲にしてでも持つべき道具だと思っています。
撤収時、きれいな緑色のクモ。ツユグモ?
撤収。
誰もいない海岸で三脚をたてて自撮りする時のメンタルは いたって普通です。
伊根の舟屋群を目指しますが、道中浦嶋神社。
そう、皆知ってるあの浦島太郎を祭神とする神社です。ただ、浦島太郎というおとぎ話は明治以降の介入が強く、原型は浦嶋子伝説とされています。
全国に多数ある浦島伝説や浦島神社の中でも最も古いとされているのが、ここ伊根町の浦嶋神社なんだそうです。
社殿の建立がいつなのかは不明ですが、神社の創建自体は825年と珍しくはっきりしていて、
この825年というのは、浦嶋子が常世の国から300年の時を経て帰還した年だといいます。
そんなわけで、浦嶋神社の境内には、浦嶋子が訪れたという蓬山(=おとぎ話でいうところの竜宮城)を再現した庭があります。
本当にそんなことがあったのであれば、浦嶋子は海の乙女ではなく宇宙人に拉致られたか、あるいはドラゴンボールの精神と時の部屋を逆に勘違いした未来人に拉致られたか、そのいずれかでしょう。
浦嶋神社を去り少し走り、途中側道を入っていくと伊根の舟屋群集落地帯にたどり着きます。
この舟屋は江戸中期くらいから存在していたと考えられており、今でも200棟以上が残されています。
漁村としては全国ではじめて重要伝統的建造物群保護地区に指定されたのだそうです。
伊根湾に一階部分が解放する形で船の倉庫を兼ね、2階が居住スペースとなっています。
かなり憧れを体現したような造りですが、日本海中部地震のようなものが更に南で発生したらと考えると、なんともいえない気持ちになります。
元伊勢籠神社から天橋立へ
伊根の舟屋群を去った後は、天橋立を目指そうと思います。
その道中、元伊勢籠神社に立ち寄ります。
籠神社の規模は大きく、鳥居を2つくぐり、
拝殿がみえます。
本殿は檜皮葺で1845年の再建。
創建は8世紀初頭ごろということのようです。
祭神は彦火明命とありますが、つまりニギハヤヒ?
日本神話の神様は別名が多すぎてもうなにがなんだか。
籠神社の狛犬は安土桃山時代作とも鎌倉時代作ともいわれていますが、社殿よりはるかに古い時代のものであるのは間違いなさそうです。
よく見ると前脚に環状の痕がありますが、これはその昔この狛犬が魂をもちあちこちで人を驚かせていたため、それを聞いた岩見重太郎という豪傑に斬られた痕なのですね。
最初この話を読んだ時、完全にゴーストバスターズのテラードッグじゃねぇか と思ったのは80年代アメリカ映画に毒された諸氏であれば納得できるのではないでしょうか?他の狛犬とはあまり似ず、独特の重厚感があります。
彫刻としての評価如何は分かりませんが、日本様式化された狛犬の中では最高傑作とされているんだそうです。
境内にはまた別の狛犬がいて、そいつの右足先の爪が 映画と同じようにパキパキっと割れて中からテラードッグが出てくるんじゃないかと凝視してみますが、
他の参拝者の え?なに 邪魔なんだけど なにみてんの? という無言の圧力に屈するのにそう時間はいりませんでした。
籠神社境内にある倭宿禰命の像。
亀に乗り玉っころを持ったおっさんとなると、今まで登場してきた大国主神や浦嶋子を全部ひっくるめたような風貌やないかいとつっこみたくなりますが、
その辺どうなんでしょう?
神武東征があったかどうかは定かじゃありませんが、この神社の宮司を世襲する海部氏の祖先となにか大きな関わりがある人物なのでしょう。
この神社での最高収穫といえば、ニホントカゲの写真を撮ることができたことでしょうか。
実は白兎神社でも目撃したのですが、すばしっこいこやつらにピントを合わせようとしてる間に逃してしまっていたのです。
籠神社の大木に蒸した綺麗な苔の上に映えるニホントカゲの青い尾。
そして境内撮影禁止と知らず社殿ではなくトカゲを必死に撮影して巫女さんに怒られるおっさん。
この瞬間、管理人は世の不条理とはそれを主張するものによる形而に過ぎないのだと悟ったのでした。
元伊勢籠神社を出て、阿蘇海をまわり日本三景のひとつである天橋立の南側へまわります。
智恩寺前にて。
700ccバイクはNGとのことで、少し天橋立を歩いてみますが、これは展望台から全容を見ないとだめだと思い、
リフトに乗って
展望台からの眺めてみます。
こりゃあ本当に天然の橋だ。まるで龍が横たわっているかのように見えます。
左が阿蘇海、右が宮津湾からの若狭湾。
天橋立を去る前に、界隈の食事処で海鮮丼👍
旅のおわりは舞鶴港へ
仕事が再開する前日には帰宅しておかないとと思っていたので、この日 日が傾きだしたのを合図に今回のロンツーを終了させなければなりません。
内心はもっとこの旅をつづけ、福井や新潟まで足をのばしたかったのですが、それはまたの機会にしようと思います。
旅のしめくくりは舞鶴港。
華やかな景勝地ではありませんが、自分にとってはウラジオストクへのフェリー イースタンドリーム号が出航する”かもしれない”重要な場所です。
一度訪れておきたいなとは思っていたので、最終目的地として不足はありません。
舞鶴には赤レンガ倉庫群なるものがあります。横浜のそれに似ていますね。
斜陽が照らす120年前の倉庫を言葉で表せといわれたら、まぁ ノスタルジー?
RPG?
ウォーキングデッド?
倉庫脇の電柱は、近年稀にみる木製。
もはや現役ではなさそうですが、この明かりが旧日本海軍の行きかう足元を照らしていたんですね。
現段階では、舞鶴―――ウラジオストク航路がフェリーとして再就航する見込みはかなり低いと考えています。
コロナの問題とは別で、それだけの労力にみあった有効需要が期待できないからです。
できればフェリーで行きたいという気持ちは変わりませんが、それに拘る余り出発できなかったら大問題なので、今は輸送に切り替えて準備を進めています。
一応、数少ない単車渡航組の気持ちも込めて フェリー再就航を祈願しておきました。
帰宅するまでがツーリング それ本当に
この後、舞鶴から高速に乗り、520kmほど走って無事帰宅しました。
家に着いた頃にはすっかり深夜となっていました。
翌朝、荷物を下ろしてすっきりしたテネレ。
走行距離は2000数百キロ、7泊8日。
転倒2回。
ノートラブル。
今回もひやっとする場面は何度かありましたが、無事大きな問題なく帰ってきたことに感謝します。
管理人にも、これを読んでくれているもの好きのバイク乗りの方にも、両親や恋人や子供や奥さんがいて、きっと自分の身だけではないことでしょう。
トカゲの写真を撮るより、野営を楽しむより、無事帰って洗い物をすることが何より大切なタスクであることを忘れてはなりません。
さて、これにて Part 5 にまで及ぶ隠岐・山陰ロングツーリングの徒然なる駄文を終了したいと思います。
神社の話がなげーんだよ
虫の写真のせんな
動画でページが重いんだよ
と、様々な叱責があることでしょう。
なにかあれば是非コメントで教えてください。
また、しばらくはテネレいじりやギア紹介に戻ろうと思います。