【完全退職】仕事を辞めて思うこと 職業倫理と自己実現

某年 お茶の水、

おれはいつものように朝早く研修医技工室の窓を開け、技工室特有の籠った空気を外へ逃がしてやった。
昨日は遅くまで部分床義歯フレームのワックスアップを仕上げ、埋没までして飲みに行った。

通年で医科歯科大の研修医プログラムに参加しているのは当時10人程度。
もはや同じ釜の飯を食ったことがない兄弟のような我々は、技工が一段落するなりお茶の水の居酒屋に行ってはしょうもない話で盛り上がるという日々を送っていた。
もはや帰るのが億劫になったおれは、控室という名の宿に泊まり、事務委員用の風呂場をこっそりと使い翌朝を迎えるのだった。
表面的にはまっとうな研修医だったが、やってることはイリーガルだらけだ。

午前中の診療を終え、午後の診療と空き時間を勘案して埋没鋳型を自動鋳造機キャスコムにセットする。
六角柱のコバルトクロムインゴットが真っ赤になるのを覗き窓から眺める横で、同期の1人が今まさに炉から出した鋳造リングを遠心鋳造機にセットしようとしていた。もうひとりはバーナーの炎を溶けた金パラから一瞬だけ逸らしフラックスを振りかける。
メタルスライムのように丸まったその時を見計らってアームを離すと ブワン!! という音と共に溶融金属が陰型に流れ込む。

ふと机の方に目をやれば、実体顕微鏡を覗きながらワックスアップをするやつの横で、半年コースのやつが午前中の診療でコア印象がうまくとれなかったと嘆いている。
まさしく、平和な昼下がりの技工室。臨床ケースを貯めつつ、技工と各科実習・座学をこなすことで時間が過ぎていった。

わずかばかりの給料ではあるものの、一人暮らしをしながら臨床研修に通い、同期とわいわいやっているこの時間はとても楽しかった。

臨床研修を終えたおれは1つ上の先輩の勧めもあり、都内の大型医療法人に就職することになった。

法人名にやや胡散臭さを感じたものの、実際の診療内容は非常にレベルが高く、当時のおれは 見学の時に新鮮なものに出会った気分でいた。使っている材料、治療方針のベクトル 全てが大学病院のそれとは異質で、自分もこんな治療ができるようになりたい 純粋にそう思うことができた。

朝、配属先の分院に行き、オーベンの診療補助をしつつ 臨床とそれに付随する様々な事を学ぶタームが始まったのだった。

とある日、
おれは上顎のインプラントオーバーデンチャーの印象をとろうとしていた。
既に他院にて埋入されたインプラントを使用するため、インプレッションポストやドライバーを取り寄せ、製作しておいたオープントレーを使いimpを敢行した。
が、患者さんの嘔吐反射が強く 呻き声が診療室中に響き渡る。各インプラントの平行性は皆無のため、インプレッションポストを外さない限りトレーを除去することはできない。印象材は固まったが、インプレッションポストの頭が印象材で埋まってしまい、緩めることもできない。
呻き声がひたすら響き渡り唾液がだらだらと滴る中、メスを使ってポスト上面に乗った印象材を除去しながら、ようやく5本のインプレッションポスト・スクリューを引き抜き、トレーを撤去した。
これが、就職後 数か月での出来事だった。
あの時は、焦った。

当時、法人全体には全員で診療のレベルを上げようというなんともいえない熱気のようなものが遍満していた。
狂ったように働き、鬼のように写真を撮り、外科・矯正分野を問わず1口腔単位で全てのプロセスを完遂できる臨床力とコンサル力を、ただ闇雲に追及する時期だったんだと。
有茎弁CTGによる根面被覆とGBRを審美領域に対し同時にやるなんて、
今思えば何てリスキーなことを楽しそうにやっていたんだろうか。

数年後、六本木

分院長となり良くも悪くも安定サイクルに入ったおれは、診療室のあるビルの7階から六本木交差点を行きかう車や人々をボケーっと眺めていた。

この頃は、自分で鎮静をかけた患者さんの再生治療をしつつ、リンガルのクロージングループワイヤを下の先生にセットさせるという無茶苦茶なことをしたり、一日中マイクロを覗きながら根尖部ガッタパーチャと格闘するのが日常となっていた。
セプタムで破れたシュナイダー膜をバイクリルで縫ってみるか、そのままバイオメンドで被覆するか、そんなような事を勘案してみるタームだった。

外から院長室に目を戻し、クリンチェックの画面を凝視する。
不要なアタッチメントを削除しながら、そこいらに散乱した書類を整理することから逃亡する口実を探す。
割と診療空き時間が増え、ひたすらに処置に追われるという日は少なくなっていた。
思いついたように4階へ移動すると、下の先生がちょうど埋伏智歯の歯根分割にはいったところのようだ。ニヤニヤしながらそれを覗き込もうとすると、邪魔です という無言の圧力を感じ早々に撤収。
再び7階に戻り、仕方なく書類を整頓した後、なぜか自然とEmilio Scotto の愛車 Black Princess の画像を検索していた。

いつからだろうか、法人全体に満ちていた何とも言えないエネルギーは薄れ、分院展開と売り上げ至上感がそこかしこで首をもたげていた。ラディカルな処置は極力避け、費用対効果を考え、予防線を張りまくる。なんとなく自分の治療志向もそういった方向性に収斂しているのを否めなかった。
それと同時に、自分の中で非社会的な欲求が膨らみつつあるのを、この時はもう分かっていたと思う。

数年後、鳥海山
まだ6月の東北は冷たくて心地よい空気で満ちていて、それを全身で感じながらCBR400RRでブルーラインを上っていた。

長く世話になった医療法人を辞め、そして離婚をしたおれは、新たな方向に 明確な舵切りをしていた。
ブルーラインを下り、ふもとのキャンプ場でテントを張った後 新たな職場での診療が始まるまでのこのフリータイムを、とにかく能動的に堪能しようとしていた。

自分のできることとできないこと、できることをやった場合に辿るであろう経過、その時の患者さんのモチベーションのありよう、
多くの側面を考慮して、言葉を尽くしてそれを理解してもらう。
自分の得意なことといえば、そんなようなことになっているような気がしていた。

2022年、勝どき

小さな小部屋に籠ってパソコンをいじっていたおれは、衛生士に呼ばれてリコールの患者さんの歯式をとりに向かう。
ユニット4台のこじんまり感は心地よく、大きな窓からは常に外の天気が窺える。
入力を終え、今度はレントゲンのボタンを押していると次の患者さんがやってきた。ここからは30分刻みでラストまで休みなしだ。

新たな職場にもすっかり慣れ、猫をかぶりながら働くタームも、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
サイナスやスプリットクレストなどを行うことはそれなりにあれど、経過の長いワイヤー矯正やエキセントリックな処置は極力敬遠し 無難な処置を繰り返す日々は、自分の臨床能力を担保に確実に返済可能な借り入れをしてはそれを消化する というような感覚に近い。

退職の日、別に何か特別なことがあるわけでもなしに、
頭の中ではなぜか泉谷しげるの春夏秋冬が流れ、ただ「あぁおわったんだなぁ」というありきたりな感慨深さが心の大半を占めている時間が確実にあった。
それほどには、多くの時間を仕事に費やしてきたんだと思う。

Zeiss の双眼ルーペを次頭につけるのはいつになるだろう?
確かにキャリアを中断したんだという立場にたってみて、改めて感得することも意外に多いもんだ。


さて

歯科治療は今までもこれからも、人が手でやる作業です。
臨床を突き詰めた人であれば、これがおよそ今のハードの技術ではロボットに置き換えられないことを理解できるでしょう。
そして管理人も、ながらく「職人技」を追求してきたに違いありません。

一方で、歯科治療があくまで自然科学の一端を担うという立場であるならば、そこに職人技は必要ありません。
優れた科学は、再現性をもってそれが問われるからです。
誰がやっても同じ結果が得られること。
人々の働き方への認識を鑑みるに、今後は歯科臨床においてもこういった汎用性が重視されていくのは抗いようのない流れです。

この2項対立関係は、人の意識のアップロードや、それをインストールしたサイバテックアバターのような技術が普及しない限り、基本的には解決不可能な葛藤じゃないかと考えています。
だからこそ、管理人が今考える職業倫理は、これら相反する2項対立を双方理解した臨床家が あまりにも感覚的な要素が強く・多い歯科臨床の世界を一般化して言語化していく努力をするということなのでないかと思うわけです。
一般化し言語化することが不可能である と分かっているからこそ、不毛な作業だという感覚に苛まれるので、あくまで一般化し言語化する努力をするという表現になるわけです。
いずれ、世界中の臨床方法論や材料・症例の閲覧がシームレスに可能なデンタル・メタバースが出現するでしょう。
そこに多くのデンタル・デジタル・プラットフォームも参入し、いい意味で高度に管理されたネットワークが構築されていくに違いありません。
その時、綿密に編纂された臨床言語は絶大な功を奏するでしょう。

正直、現状の体制は絶望的です。
健康保険を隠れ蓑にした医系既得権益
旧体制を保持したい無能な歯医者
そもそも臨床力もない上に向上心もない目先の売り上げホイホイ歯医者
歯科治療のもつ緻密さや複雑性に覚悟をもたない馬鹿で不器用な学生
売上至上主義を一端に2極化する大型法人と地域の歯科医院
国民の歯科一般に対する意識の低さ
臨床を全く理解しない官僚による上流管轄
本質的なクオリティが補綴によりブラックボックス化するという特性
原理が変わらない中でソリューションだけがひとり歩きする矯正界

挙げればきりのない障壁のあるなかで 先の職業倫理を謡うのは困難極まりないでしょう。

自己実現 とは、常に社会貢献を前提として使われる言葉だと、原義的にはいわれます。
しかしここまで現状の歯科をとりまく環境が腐敗しているからこそ、先述の職業倫理を実現することはほとんど自己実現と同値だと言っても過言ではないんじゃないでしょうか。

さて、

仕事を辞めた管理人に、この筋で自己実現を訴求する道が残っているんでしょうか?
住民票もなくなって半分くらい社会人とはいえないようなやつが社会貢献?
一見真逆をいっているような管理人の選択も、やりようによっては何かの役にたつことがあるかもしれません👍