【コロナで大変だね】とよく言われるけど、本当にそうだろうか?

こんにちは、世界放浪2輪旅を目指す管理人です。

管理人がバイクでの世界旅をいよいよ具体的にしようと決めだしたのが、おそらく2018年の年末ごろ。
その後、自分の周りの近しい人々に自分の考えていることを伝え始めたのが2019年の春にかけて。
そして約1年かけて2020年の春に前職を辞し、今に至る という感じでしょうか。

そして昨今のパンデミックが世をにぎわせたのが2020年の年始~ なので、当初管理人が話をした人々の中には
「コロナで大変ですね、行けないかもしれないですね」「行ってもヤバいですよきっと」
と漏らす人も少なからずいました。

確かに、国境が封鎖され入国規制が敷かれてしまっては、パンピーではどうしようもないためどんなに強い意志をもとうがどうすることもできません。
ただ、完全に国境が封鎖され入出国ができない状態などそうつづくはずもありませんし、実際に徐々にではあるものの 緩解の兆しがみえるのはここ最近のニュースの伝えるところではあります。
では、きっかけは何にせよ 人流や物流がある程度元に戻り バイクで日本を出発できたとして、そこで見る世界はどうでしょうか?
多くの媒体で言われる通り そこにもう ❝元の世界❞ はないでしょう。
よく言えば新たな価値観 悪く言っても新たな価値観 に過渡する世の中が、確かにあるはずです。
普通に考えれば、元の世界の方がよかった となることでしょう。
そしてそれはある一定のレベルで許容せざるを得ません。
ただ、そんなアフター・コロナの世界は 見るに堪えないつまらないものなのでしょうか?

https://www.iima.or.jp/docs/newsletter/2020/nl2020.23.pdf

いきなり話が変わりますが、上のグラフは日本・アメリカ・ヨーロッパの各中央銀行のバランスシート残高の対GDP比推移を表しています。
日本に関しては民主党からの政権交代に伴い、黒田総裁による高次の量的緩和がみてとれますが、パンデミックにより各国中央銀行はphジャンプ並みにその資産を膨張させているのがよくわかります。つまり、価値の裏打ちの無い紙幣が無尽蔵に刷られているという状態でしょうか。
ニクソンショックにより金とドルの兌換性がなくなって以降、「お金」の価値の裏打ちは議論の対象になりがちです。
未だ収束の見通しがない状況にも関わらず、日経平均3万円代にまでなろうとするわ一等地の不動産価格はどんどん上がるわ あらゆる金融商品の見かけ上の価値がうなぎのぼりになるのもまたおかしな状況に思えます。が、極限まで価値が希薄化した現金を 何か他のものに置き換えておきたいという人情の顕れだと思えば納得できます。
現代貨幣論(MMT)曰く、このような不思議な状態が今後も維持され、膨張しつづけることが可能とのことですが、結局のところこういった議論は事態がおおきな変動を迎えた後 結果論的に「一見論理的な」こじつけがそれらしく唱えられるのが経済学の常ではないでしょうか?
今後この膨大に膨れ上がった現状の金融システムがどのような顛末を迎えるのか、それは誰にも分からないようです。
管理人は経済学者でもなければ神話論者でもありませんが、ただ主観的な願いとして 「破綻」を望んでいる節はあります。
それはいわゆるプライマリーバランス黒字化信者のいう「財政破綻」ではありません。価値という概念の破綻です。
何となく楽しそうだからという無責任な感情もあれば、これから自分が住所不定無職のロストワールドへ身を置こうとしているからというのもあります。
なにより、近代資本主義が培ってきた華美と利便が その代償として膨らませてきた不穏な有象無象を受けいれることと、普通に生きていくことが切っても切り離せないというジレンマが壊れてくれるんじゃないかというささやかな希望があるのかもしれません。
各国でのベーシックインカムの導入実験や、中央銀行発行の暗号資産などがいよいよ実際に運用されはじめているのをみると、おや これはまじで何かしらの伏線か?とか穿った目でみてしまうのです。

さて、この話と管理人がアフター・コロナの世界をバイクで見聞しに行くことと、なにが関係あるのか。
それは、中央銀行前提の既存の金融システムが変革することは、新たな価値観が台頭することと表裏一体なのでは という一種の目論見に起因します。
今までの世の中では、例えば日本において市場で取引されるものであれば どんなものでも最終的には「円」に置き換えてその価値が決められていました。
車はいくら 家はいくら ビットコインも換算して何円 株も売却したら何円・・・・・
そりゃあ金塊も証券も食えるわけではないですもんね。
ではもしも、本当に ¥ に一切の価値がなくなったとしたら、一体現状のあらゆる取引はどのような方法に置き換わればいいのでしょう?
言ってしまえば、究極的な物々交換がそれだと 管理人は思います。
ある人にとってある量の価値有る事 と また別のある人にとってそれと同等の価値有る事 を 交換する。
雑にとらえればその仲介役だったお金がいなくなっただけの事です。
人々の思考にまで深く根を張った資本主義はもはやシステムを通り越して常態そのものにさえ見えるので、当然、いきなりそんな状況になるなんてことはあり得ませんけど、仮にそうなったら 次に課題となるのは「価値のはかり方」とその定量化です。
あなたにとって本質的に価値あることとは、なんでしょう?そしてその価値を得るために支払うべき対価とは?

意識のアップロードとインストール

また話が大きく変わりますが、是非上の画像のリンク先記事をご覧ください。
この記事では、未だ深淵な謎の多いヒトの意識をデータとしてアップロードすること、そして更にはそのデータをロボット(あるいは半生物?クローン?)アバターにインストールし、生身の肉体を失っても「意識」として生き続けることが技術的に十分可能だということを言っています。
まさに映画マトリックスの世界観ですが、人によっては何と荒唐無稽な と思ったり、あるいは倫理的によろしくない! なんて決まり文句を言うひともいそうすね。

サイバテックアバターによる生活

ではこちらはどうでしょうか? リンク先に飛んでいただけると分かる通り このムーンショット計画という名の計画はその内容のぶっ飛び具合に反し、内閣府が提唱するものなのです。オカタイ日本の官僚が、とちょっと意外ですね。
こちらには意識のアップロード という話はありませんが、身体が脳の制約から解放される という部分には多分に同じような意味合いが含まれていると思います。
SDGsなどのアジェンダもそうですが、建前上は聞こえがいいというか、見てくれのいい目標としていて、本質的にはおそろしいコアをもっていたりするのはよくあることです(ムーンショットがその類だとは思いませんが)。

そもそも意識のアップロードというとなんだか本当に機械に支配されてしまうのでは というように感じる人も多いと思いますが、
今まさにあなたがスマホで何かを検索したり、パソコンで何かを調べたり、誰かと電話したり、そういった全てが実は自ら自分をアップロードしている作業に他ならない、という考えは4次産業革命以降割と一般的な議論でしょう。
他人は自分を映す鏡 とか言ったような言わないような、自分のことは確かに自分にしか分からないこともあるのですが、実は他人のほうが客観的に自分を評価できたりします。スマホという超高性能なデバイスが小学生にまで1人1台当たり前になるこの世の中、デジタルデバイスに集積されたあなたの情報は、場合によってはあなた自身をかたちづくり兼ねない ということです。
そう考えれば、意識のアップロードは既に始まっているのかもしれません。「わたしの意識」として能動的かつ確定的にアップロードする認知が広まることと、それを実現する技術が開発されることによって、それが加速するだけのことなのかも。
こういった高度に詳細化された情報を元に構築されたパーソナリティ~グローバルなネットワークにベーシックインカムや暗号資産といった社会的インフラが相まって より高度な管理社会が実現していった時、それが悪いことかというと 必ずしもそうはいえないでしょう。

・近代資本主義を支えてきた金融システムの衰退とそれに伴う新たなシステムや価値観の台頭
・巨大なデジタルデータに基づく個人レベルでのデータ化や、意識のアップロード

いまわたしたちが生きてる時代というのは、後から振り返ってみたらすさまじい激動の中にいるのかもしれません。
先の大戦や民族大移動のようなドラスティックな挙動はないものの、世界の渦が 大きくあざなえる縄の縒り目に差しかかっているかもしれないからです。
そして意図されてなのか、たまたまなのか、そんなことはどこまでいっても知った事ではありませんが、その大きな岐路にたまたまパンデミックが重なったと考えても、そんなに言いすぎではないでしょう。
そして先の問に立ち戻ってみます。
アフター・コロナの世界は 見るに堪えないつまらないものなのだろうか?

この時代に旅を目指してしまったことへの負け惜しみ と言われてしまえばそこまでですが、
管理人は この時代に旅を目指すことができてよかった と思っています。
まさに大きなうねりの過渡期に、世界がミクロでどんな様相を呈するのか、バイクで走り 見ることは 自分が認識し得る我が人生において、楽しいじゃありませんか。
「自分が認識し得る」とわざとらしく言うのは つまりそうではない可能性もあるからです。
例えば、今ぼくらが見てる世界や 自分が考え自分で選択していると思っている全ての事象も 実は全く別世界のナニカによってつくられたプログラムの一部で、ぼくら人間はそれを構成するただの単位でしかないかもしれない とか、
我々が最小単位だと思っている原子だったり素粒子だったりの中にも 実は無限のように宇宙が広がっていて、その中にも他のナニカの人生(?)や喜怒哀楽が繰り広げられているかも とか。
ただそれを観測し、記述し、記録する術がないだけであって 想像し得る全て はたまた想像し得ないことだって有り得るじゃないですか ということです。
別の見方をすれば、人間が存在しなかったら世界は存在するんでしょうか?
世界を観測し、記述し、記録しているからこそ世界は世界と認知され 存在することが当たり前ですが、それができるのは 人間だけなんですね。
なにものにも認識されていない世界は 存在したとしても 存在するのか?
ただ、パスカルが人間は考える葦だと言った通り(パスカルにその意図があったかは知りませんが)、確かにぼくらは考えそして生きているわけです。
なので、自分が認識し得る我が人生を、楽しいものだととらえようじゃないか そういうことです。
結局のところ、ぼくらが感動して涙するときの、あの感覚が、想像し得ないものによってでさえプログラムされたものだとは 到底思えませんしね。

とりとめもない意味不明な文章をしたためてしまったことにわずかばかり後悔しつつ、
New World Order のはびこる世界をバイクで走ることへの自己肯定とさせていただければ幸いです。