【Republic of Uzbekistan episode 7】Khiva; ヒバの街での廃人生活

こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

ブハラの街を去って、さらにウズベキスタンの西へと進んでいきます。

ここまでのルート

Khiva;ヒバへ

ブハラからヒバへの道は430kmほど、ただひたすら砂漠を眺めながら走ることになった。もろにキジルクム砂漠の下の方を通る感じだろうか。

アラビア半島で散々砂漠には慣れたけど、やっぱりこの茫漠な風景を数百キロも走るのは気だるい。連日うだるような快晴が続く中、幸運なことにもこの日は空一面がどんよりとした厚雲で覆われていて、これ幸い とか思っていたのもつかの間、

しばらくすると綺麗に雲の端に到達し、強烈な太陽光線が降り注ぐ。

都市間の移動は逃げこめる影場も一切ない。ただ暑さに耐えて走る。

ウズベキスタン南部、トルクメニスタンとの国境近くを東西に貫くA380は、概ね舗装状態もよく ストレスなく走れるものの、時折工事区間が現れる。

南側にはテーブルマウンテンのような隆起がみえる。

なんでおれは夏にあえて砂漠ばっかり走ってるんだろう。

いや、好きでそうしてるわけじゃないんだけど。

ヒバに近づく頃、左手には大きな川が見えて来た。Amu Darya; アムダリア川だ。死の世界を彷彿とさせる砂の大地に、突如として現れるここら一帯の緑地は、アムダリアの恩恵が大きい。この大河の水源の一部は、ついこないだまで走っていたパミールの高原地帯にある。

そんなアムダリア川を渡って、ホラズム州に入っていく。

さっきまでとはうって変わって、灌漑の水路や

田畑の景色が目に優しいなか、

ヒバの中心部に到着した。

Khiva の城壁~外

ヒバの街は、隊商オアシスとしてイスラームより遥か以前から形成されていたらしい。17世紀前半に、ひとつ前の記事のブハラと同様、ジョチウルスの系譜を継ぐヒバ・ハン国がUlgench;ウルゲンチから遷都して首都となった。ちなみに現在ウズベキスタン領にあるウルゲンチは Newウルゲンチともいって、ヒバ・ハン国(遷都前はウルゲンチ・ハン国)の旧首都であったウルゲンチは、現在トルクメニスタン領内に取り込まれている。

中央アジアに存在した「城壁に囲まれた都市」形態のことを Icha Kala; イッチャン・カラ といって、ここヒバはそのイッチャン・カラが最もよく保存されていることで、城壁内はまるまる世界遺産となっている。

Inner Wall こと、イッチャン・カラを取り囲む城壁。高さはだいたい8mほどもある。
まずはこの城壁の外側はぐるっと歩いてみた。

西側から歩いていくと、まずは東西南北にある4つのうちの西の門 Ota Darvaza がみえてくる。

8~9世紀にバグダッドで活躍した Muhammad ibn Musa al Khwarizmi の像がある。ホラズム出身の科学者だった彼は”アルゴリズム”という言葉の語源にもなったという中世アラビアを代表する科学者だ。

西側から北へ回り込んでいくと、今度は北の門 Bakcha Darvaza がみえる。

 

そして北側から今度は東側へ歩いていくと、

東側の城壁の先に、

東の門、Palvon Darvaza に辿り着く。

東の門のさらに東側には、広々とした空間が広がっていて、ここを少しあるいていくとまた色々ある。

ブハラやサマルカンドに比べると、かなり人口密度は少ない印象で、砂漠の街のサビれた雰囲気が楽しめる。

1885年 Tort Shovvoz Complex.

1905年 Xusan Muhammadboy Madrasah (Google map では Naspurush Madrasah).

Khiva のモニュメント.

1905年 Polvon Qori Madrasah.

ここは塔の上に上れそうな感じだったので、上ってみる。

Polvon Qori Madrasah のミナレット頂上から、Khivaの街を眺めてみる。

1835年 Said Niyaz Karabay Mosque.

Abdol Bobo Complex.

城壁側に戻って、更に壁沿いに進む。

壁の斜面に上って遊ぶ子供たち。

東側から南へ折れて進むと、

南の門、Tosh Darvasa.

Inner Wall ということは、Outer Wall もあるだろうと、南の門から更に南側にはこんな感じの外側に相当する門があって、

それらの門はこの写真でみえるような Outer Wall で囲まれている。

Khiva の城壁~内;Ichan Kala

さて、てなわけで次は城壁の内部へと入っていく。南門から入ってみた。

Darvazaのアーチ内面。

サマルカンドやブハラでは、歴史的建造物が近代的な街の中に点在していたのに対して、イッチャン・カラは 街そのものが昔のまま、時間が止まったかのように存在している。

路地の脇にあるMud Brick の家家も、まるで遺構の一部のようだ。

そんな一室で作業に励む男性。何やら家具の脚部をつくっているようだった。

Islam Hoja の標識。

Islam Khoja Minaret と、Islam Khoja Madrasa. 1908-10年
イッチャン・カラ最高のミナレットで、45mの高さがある。

イッチャン・カラ内の路地は網目のように色々な方向に伸びていてい、その随所に遺構があるから なかなか全体を見て回るのは大変だ。

北東側へ路地を進む。ところどころ、手作業の建設作業が進められている。

1856年 Abdulkhan Madrasah.

レンガ造りの壁に囲まれた路地には、日よけテントと土産屋が軒を連ねる。

素焼きのポットに絵を挿している。

季節外れな防寒帽と、重厚な扉の床屋さん。

19世紀の建物に囲まれた中、沢山のパラソルの重なる様は、200年前のバザールに迷い込んだような気分にさえなる。

そんな路地を抜けると、大きな2つのマドラサが向かい合っている。西側は Kutlug Murad Madrasah 1809年.

どういう由縁なのかはよく分からないのだけど、Kutlug Murad Madrasah の前にはかわいらしい虎の像がある。

その向かい、東側にあるのは Khojamberdibai Madrasah 1834-35年.

神学校の向かい合わせの間をそのまま北へ進んでみると、

Tosh Khauli Palace 1830-38年 の城壁が左手に見えて来る。城壁上部の剣状飾りは全てタイルで装飾されている。
これがヒバ・ハン国のハーン(君主)の宮廷だ。
Tosh Khauli 宮殿の北側を周っていくと、そこにも小さな遺構たちがたくさんある。

名称不明の霊廟(?)と、Mausoleum of Uch Avliyo 16世紀.

これは Tosh Khauli 宮殿の西側の門だろうか(?).

Dost Alam Madrasah 1882年.

Muhammad Arabkhan Madrasah 1616年.

この界隈も城壁に囲まれた路地があちこちへ伸び、迷ってしまいそうになる。

Muhammad Amin Inaq Madrasah 1765年.

路地を少し北側へ進んでみると、

Amir Tura Madrasah 1870年. 入口部分は地下構造になっていて独特だ。

さらに北側に歩いていくと、Bakcha Darvaza;北門の裏側まで来たようだ。

イッチャン・カラ北側の路地の様子。

Musa Tora Madrasah 1858年.

Yosuf Yasavulbashi Madrasah 1906年.

管理人が見た中ではイッチャン・カラ内で最小のミナレット Murad Tura Minaret.

Tosh Khauli 宮殿の北側から中心方向へ戻ってくると、大きく開けたスペースにでた。

このスペースではよく民族衣装を纏い伝統楽器を持った楽団が盛大に歌を披露していることが多い。

西側には 17世紀につくられた城塞の Kuhna Ark と、

東側に Muhammad Rakhimkhan Madrasa 1871年 が向かい合っている。その間を南へ抜けると、

Ota Darvasa; 西門からつづく通りへ出る。

雰囲気的にはこの通りがイッチャン・カラの中で一番賑やかだろうか。

ここで最も目を惹くのが、何やら少し寸胴な印象の Kalta Minor Minaret. 当初はもっと高くまで建設がすすめられる予定だったのが、時の君主の逝去によって工事が中断されたためにこんな形になっちゃったのかもしれない。それでも高さは28mもある。

そんな Kalta Minor Minaret とファサードのフジュラが橋で繋がっているのがイッチャン・カラで最大のマドラサ、 Mohammad Amin Madrasah 1851-54年. 記念撮影用の黄金の椅子が置かれていた。

西門からの通りにあるお土産屋にも旧ソビエトのピンズが!! こりゃソビエトピンズを収集するならヤフオクで頑張るよりウズベキスタンに来て大人買いした方がいいな。

西門からの通りを東へすすんでいくと、Matniyaz Divanbegi Madrasah 1871年 の奥に、

13世紀の Mausoleum of Sayid Allauddin がある。イッチャン・カラ内で最古の遺構だ。

Qozi Kalon Madrasah 1905年を右手に、

Matpana Baya Madrasah 1909年 を左手に、

一際目立つミナレットが、Juma Minaret.

Juma Minaret は 中央アジアで最も著名といわれるこのJuma Mosque に従属していて、元々は10世紀に建てられたというかなり初期のモスクの内部は200本以上の手彫りの木柱が並ぶ独特な空間だった。今見る姿は18世紀後半に修繕されたもの。

Juma Mosque の南側裏にまわると、また独特な回廊が通ている。

この通りは左右(南北)に無数のマドラサや廟が並んでいるけど、

特に南側のShergazi Khan Madrasah 1718-20年と、

北側の Pahlavan Mahmoud Mausoleum が巨大だ。

それらの間を抜けて振り返った時のこの景色が、おそらくイッチャン・カラの中でも最もアイコニックといえるものだと、管理人も感じた。向こうに見えているのは、最初に見た Islam Khoja Minaret だ。

あまりにも長くなってしまうから今回各マドラサの内部や詳細は省いたけど、それぞれのマドラサや廟の中には内部へ入れるものもあるので、イッチャン・カラは更に奥が深い。ガチで深掘るなら1日じゃ足りないと思う。

邦人ライダーとの稀有な出会い

ここまでだと、なんだちゃんと観光してるじゃないか、タイトルの「廃人」とはなんだ と思われるかもしれない。

実は、ヒバには2週間近く滞在していた。
というのも、トルクメニスタンのビザを待っていたのだ。
本当に反省しなきゃいけないことだけど、トルクメニスタンのビザには時間がかかると分かっていながら後回し後回しでついにヒバまで来てしまったため、ヒバの観光を終えた後も特になにをすることもなくダラダラとトルクメニスタンのビザが出るのを待つ生活を送っていたのだ。もっと計画的にいくなら、サマルカンド、せめてブハラにいる時に手続きの初動をとっておくべきだった。

朝は昼前くらいまでぐーたら眠り、そのまま寝続ける日もあれば既に観光を終えたイッチャンカラを目的もなく徘徊しては宿に戻ってダラつく といった自堕落な日々を繰り返していた。

そんな何の生産性もない日々に少しの後ろめたさも感じなくなった自分にニヤけている中、Twitter でとある日本人ライダーからコンタクトがあった。

彼の名はかわさん。なんとカザフスタンのアルマトゥイでバイクを購入し、そのバイクで中央アジアを旅している最中だったのだ。ちょうどヒバで意図せぬ沈没をしかけていた管理人とルートが重なり、このウズベキスタンの古都で会うことができたのだ。

まさかこんなところで邦人ライダーと会えるとは思ってもいなかった。バイクは200cc シングル Almotor という中華製で、

ナンバーは確かにカザフのライセンスになってる。

中央アジアでのバイバック(現地でバイクを調達し、旅を終えた後にまた現地で売却する手法のこと)ってのは聞いたことがないから、なかなか貴重な情報の持ち主だと思う。

かわさんはヒバに2日滞在だったので、2日間夕飯を一緒に食べつつ 海外ツーリングのあるあるや、今後の展望などで話が盛り上がった。まさかの1988年生でタメだったのも思わぬ偶然だった。これからタジキスタンのパミールに向かうということで、かのバイクがあの悪路を持ち堪えるかやや心配だったけど、お互い健闘を祈った。

おまけ

ヒバで食べたラグマンは、汁なしラグマンだった。一説によると、中国から遠ざかれば遠ざかる程ラグマンの味は落ちるらしいが、それでいくとヒバはだいぶ下ランクのラグマンってことになる。まぁたしかに、ウィグルのラグマンの方がうまかった。

滞在中に宿の主人が何度か夕飯をご馳走してくれた。これはまさにヒバの家庭料理で、ピーマンに肉が詰まっていてうまい。そういえば、日本の家庭料理にもピーマンの肉詰めってあるよな。ピーマンには肉を詰めるのがどうやら相場のようだ。

そいでもってこれは Shuvit Osh; シュビトウシュ というヒバだけのご当地グルメ。ディルというハーブの一種を練り込んだ緑色の麺が特徴で、そこにジャガイモとか肉のはいったソースを絡めて食べる。うまいぞ。

つづく

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