【Republic of Turkey episode 9】Diyalbakir; ディヤルバクルのシリア正教会を再訪 そして預言者の街 Şanlıurfa; シャンルウルファへ

どうもこんつくは、グレートエスケープの管理人です。

ディヤルバクルで出会ったAhmadが話していた遺跡が 街の南30kmくらいの場所にあるようなので、来るときにスルーしちゃったもんだから一旦戻って訪れてみることにした。

ここまでのルート

Zerzevan Castle

朝。ディヤルバクルで野宿なんて、普通に考えて完全にNGだけど、マルディン門周辺の公園のような場所には警備員のような人もいて、いたって安全に過ごすことができた。

ついにテントのポール内に入っているショックコードが切れた。
色んな道具にガタが出始めてる・・・

ディヤルバクルから少し南へ戻って、

途中、ちょうどマルディン県とディヤルバクル県の県境に近い場所で、ハイウェイから逸れた小高い丘を上って行く。

なぜかこの岩山だけやたらとベニゴマダラヒトリが沢山飛び交ってたなぁ。

テネレを停めて、更に徒歩で急な斜面を上って行くと、

Zerzevan Castle; ゼルゼバン城が見えて来た。
東ローマ帝国の最東端に位置していたこの地域は、当時の重要な軍駐屯地で、ゼルゼバン城はマルディン(当時のDara; ダラ)とディヤルバクル(当時の Amid;)の交易中継点かつ、防衛線としても重要な役割を担っていたようだ。
つくられたのは4世紀頃と考えられていて、アナスタシウス1世ディコスルと、ユスティアヌス1世の治世に最も完成された状態となった。
その後、アラブ・ビザンツ戦争によってレバント地方がイスラム勢力によって陥落するまで(~639年頃)、城は機能していたという。

これが城が最盛期を迎えた6世紀の復元想像図。
こんな岩山の上にこんな城があって、中で人々が暮らしていたのかと考えると、、、古代の世界はロマンに溢れている。

3~7世紀、南側城壁の遺構。

年代不詳 Rock Alter; 岩の祭壇。

年代不詳 South Tower ; 南塔.

岩山の上には沢山の遺構が公開されていて、面積は思っていたより広い。6世紀 Grand Church.

遺跡のあちこちでレリーフを探してしまう。

2世紀ごろ初期キリスト教徒によって使われていたと考えられている Undergroud Church.

2~7世紀の住居跡。

1~7世紀、とだいぶ期間に幅があるけど、Water Cisterns; 貯水槽。敷地内には他にも貯水空間がみつけられる。

サイト内には巨石や遺構の残骸が大量に転がっている。そんな岩の間に お宝でも挟まってるんじゃないかと思わず探してしまうのが人情というもんである。

一般公開されている中で、最も北に位置する Sanctuary of Mithras; ミトラス神殿 1~3世紀。
いくつもの地下空間が発見されて、今は金属製の蓋がされているのが分かる。

蓋の隙間から地下を撮って見ると、存外に広い! Ahmadの話によると、イーロン・マスクはこの場所に非公式で発掘の立ち合いにやってきてたらしい。

神殿内部。

ミトラ教のシンボル、燃える王冠とはこれのことだろうか??

 

城が建つ丘の頂上から。

Zerzevan城とアメリカ建国バッジの謎

Diyarbakır’daki Zerzevan Kalesi’nde Amerikan Rozeti Bulundu

ゼルゼバン城に関して これもAhmadから聞いた話だけど おもしろい逸話がある。
上の記事にあるとおり、アメリカ建国時のものと思われるバッジが 敷地内の城壁の下から出土したのだ。分析によると、バッジがつくられたであろう18世紀から、300年ちかくずっと地中に埋まっていたというのだ。この種のエンブレムが使用され出したのは1900年代初期かららしくて、それよりも古いこのバッジが、一体18世紀にどうやってトルコにやってきたのか、完全に謎だという。
全くもってこの種の話はおもしろい!

Klausとの出会い

ゼルゼバン城を後にして、またディヤルバクルに戻る途中 Ongözlü Bridge のところでドイツからのテネレ乗り Klaus と出会った。
さすがドイツ人、ツアラテックの上下スーツに身を包んで しっかりしてる。

ちょっと話すだけの感じだったのが、だんだんと話がエスカレートして けっこう長く話をさせてもらった。
東トルコは依然としてそんなにオーバーランダーと出会う機会が多くはないけど、ユーロ圏からトルコ経由でイランへ抜ける定番ルートを辿る欧州のライダーと出会うのは珍しくない。

Syriac Orthodox Church of the Virgin Mary

市内に入って、昨日閉まっていたシリア正教会にもう一度来てみると、今度は開いていた。

紀元前1世紀ごろよりあった異教の寺院を教会として改築したことにその歴史を遡り、原型はなんと3世紀というから非常に古い教会といえる。しかし、3世紀というと まだニケーア公会議(325年)より以前の話でキリストの神性と人性の在り方について教義が分かれる前のことだ。

ニケーア公会議では、アタナシウス派 vs アリウス派で、「キリストはあくまでも人間で神ではないよね」という神性否定のアリウス派が異端として認定された。さらに381年のコンスタンティノープル公会議で、キリストには神性・神の子としての人性 そして精霊を加えた3つの面が実体として1つの中に共存するという三位一体説がローマ帝国としての国教教義となる。

さらに431年には、エフェソス公会議において 「キリストの神性は認めるけど、受肉によってその位格は人性に統合されていて、神性/人性は分離してるし、あくまで人性としてのキリストを産んだマリアは神の母じゃなくてキリストの母だよね」という考えのネストリウス派が異端とされ、東方へと逃避 その末裔がアッシリア東方教会の起源となる。
さらにさらに451年のカルケドン公会議においては、「キリストの位格はやっぱり単一だよね」という考えが異端とされて、非カルケドン派として現在のシリア正教・アルメニア正教・コプト正教の起源となる。シリア正教会が完成されたのは6世紀頃らしい。

正面観。4本の柱が並ぶポルチコと、板状のファサードが特徴的で、やっぱり黒い玄武岩が美しい。

 

教会には、いたるところにアラム語の碑文が刻まれている。そういえば、シリアの Maaloulaで教会を訪れた時は、シスターがアラム語で何かを暗唱してくれた。アラム語の話者は年々減少していて、特にシリア内戦後は住民の離散に伴って言語の継承が難しい状況になっている。動植物とおなじく、こうやって人の文化も少しずつ形を変えて絶滅してしまうのだ。

入口のレリーフ。

教会内部。
教会は1297年に大規模に損壊した後、幾度にもわたって修復を繰り返して今の姿になっている。

主祭壇。

イコン後陣の装飾には、イスラームのムカルナスを思わせる立体構造があって興味深い。聖母マリア教会なのでイコンはイエスを抱くマリア像だ。元々両性論的なネストリウス派の考えを否定すうように生まれたという単性説的な考えを源流にもつことから、マリア像は非カルケドン派の教会にあってもおかしくないけど、実際シリア正教会は単性説を否定していて、もうなにがなんだかよくわからん。

身も蓋も無い事をいえば、キリストの中の神性だの人性だの、さらにはそれがどうやって存在してるかなんて、当の本人がいない上で後世の人間があーだこーだ議論したところで何と詮の無いことよ と思うんだが、どうだろう?

シリア正教の聖人の遺骨も収められているらしいけど、たぶん公開されていない。

西側の身廊には、こんなような籠?のようなものがいくつか展示されてたけど、掲示もないし、調べてもなにも出てこず、なんだかわからん。

入口の南側にある小さな扉から、教会の裏側に回ってみる。

同じく黒い玄武岩でつくられた建物に、

碑文があったけど、こっちはアラビア語、、、かな?

オッドアイのにゃん。

 内壁 İç Kale

時には山道よりもおっかない未知の路地。

路地を抜けて、市内の北東方向に行ってみる。

外壁に比して600mと、長さは短いものの 歴史は外壁よりも古いという内壁。

内壁にあいた門と、

鉄の扉。

内壁と外壁に囲まれた場所は大きな公園となっていて、博物館や教会が点在している。
管理人が訪れた時は、聖ゲオルギウス教会はじめ閉鎖されていた。

内壁の内側に戻って、北東部の市内を少しだけ散歩する。

アート色強めな路地。

暑すぎて、思わずアイスクリームを買ってしまった。

Şanlıurfa へ

ディヤルバクルはとても奥が深い街で、探索すればあと1週間は色々発見できそうではあったけど、まぁそこはほどほどで、次の街へ移動する。

南西方向に約180kmほど走ると、南東アナトリアの最大都市 Şanlıurfa; シャンルウルファに到着した。

急な斜面の丘の頂上には Ulfa Castle ; ウルファ城と、特徴的な2本のミナレットが見える。
城壁は814年 アッバース朝によって建てられたものだけど、2本のミナレットは2~3世紀にウルファ(Edessa; エデッサとも)を支配したオスロエネの王によって建てられたものが今なお現存している。

テネレをまた適当な場所に停めて、街を歩いてみよう。

Şanlıurfa 徘徊

Balıklıgöl

シャンルウルファの街を象徴する Balıklıgöl; 聖なる魚の池 とその脇に建つ Rizvaniye Mosque.
つくられたのは1736年と 今まで見て来た他のモスクに比べると新しいモスクではあるもののバルコニー付きのミナレットと3連のドームが美しい。

伝説によると、預言者アブラハムは当時偶像崇拝をしていたバビロニアの王ニムロドと対立した結果、燃え盛る炎の中に投げ込まれるも、神の力によって炎は水に、炭は魚に姿を変えたという。それが由縁となって、この池は聖なる魚の池と呼ばれている。
この鯉は神聖なものとして食べることは勿論、触ることも禁止されている。
とはいえ、この伝説自体はコーランやハディースの中に明記されているものではなく、近年になってから創作されたものという話もある。

リズヴァニイェ・モスク周囲は美しく整備された公園になっていて、敷地内には沢山のカフェがある。

アブラハムに追従したニムルドの娘 ゼリハにも同様の故事があって、その際にできた湖がこの Ayn Zeliha Gölü.

アブラハム生誕の洞窟

神聖な池の周りの敷地の東側にある Mevlidi Halil Mosque.

オスマン帝国時代の1523年に建てられ、その後ミナレットの増築や中庭の拡張などが行われて今に至る。

列柱回廊と、床まで鏡面のような石で輝く美しい中庭。

Wudu の水場。

モスク内。

このモスクのすぐ脇にあるのが Mevlid-i Halilulrahman Mağarası.
ユダヤの始祖であり、キリスト教 イスラム教 全ての「啓典の民」の父とされるアブラハムが生まれた洞窟だといわれている。

それにしては簡素なものだな、と思ったけど 実際真偽のほどは???
先述のニムルドは、アブラハムの生誕を恐れて 同時期に生まれて来る子供を皆殺しにしたという。それを知ったアブラハムの母親は、この洞窟に隠れてアブラハムを出産したらしい。洞窟の奥には湧き水がでていて、メッカのZamzamと同様神聖な水とされている。

バザール雑記

シャンルウルファの街のバザールの様子を、適当に貼っていこうと思う。

 

 

 

適当に店に入って、ケバブで腹ごしらえをしていると、こんなトルコ南東の街で日本人旅行者に出会った。

新婚旅行で世界1周をしているらしい。変わった場所をチョイスする夫婦もいるもんだねぇ。

Edessa Castle の建つ丘の上から

 

せっかくだから、しばらく一緒に行動することになった。お二人も、この辺りで日本人に会ったのはこれが初めてみたいだ。
夕暮れのBalıklıgöl と Rizvaniye Mosque.

シャンルウーニャン と生まれたての子犬をアダプトするトルコ人男性。

ウルファ城の根本までつづく階段があったから皆で上ってみる。

城壁に夕日が差したときの雰囲気が大好きだ。

夕暮れのウルファ全景。

オスロエネ時代にまで遡るとされるミナレットの柱頭には、アンカンサスの細かい彫刻が見られる。明らかにイスラーム以前のコリント式に近い様式。侵略が絶えなかったローマ帝国東端のこの場所で、よくぞ1900年近く建ちつづけているなぁ。

ウルファの街を見下ろす丘の頂上に、東西にのびる城壁。

ヤギの散歩、、、、はて。

夜の Balıklıgöl と Rizvaniye Mosque アゲイン。
それぞれの時間帯で全く違う表情を纏う。

出会った日本人夫婦の2人にお別れをして、シャンルウルファの街を後にする。

郊外北東に向かった場所で、ちょうどよさそうな野営地を発見。

内部のショックコードが切れてやや設営が面倒になったテントを張り、就寝。
今日も濃い、濃すぎる1日だった。

つづく

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