【Islamic Republic of Pakistan episode2】終わらない護衛 首都 Islamabad; イスラマバードまで 苦難の1,500km後編

こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

イランーパキスタンの国境からバロチスタンの州都Quetta;クエッタへ到達しました。ここから、さらに北上し パキスタン北東部を目指します。

ここまでのルート

Quetta の警察署にてNOCの発行

Bloomstar Hotel にて偶然遭遇したマレーシアからのライダーグループ。
インドとミャンマーの国境は相変わらず閉じているから、彼らはマレーシアからインドへバイクを輸送し、これからイランへ向かうようだ。

ところで、パキスタンのバロチスタン州を走行する上ではNOCという書類の発行が必要になる。
NOCとは、おそらく No Objection Certificate の略で、要はバロチスタン州からの走行許可証のようなものだ。

朝、警察車両に皆で乗り込んで 書類発行のための施設に向かう。

渡された紙に目的地などを記入して待つこと2~3時間、

これが最終的に発行されたNOC.

タフタン・ボーダーから東向きでやってきた外国人は、この時点でイスラマバード行か、ラホール行かを選ぶことになる。
管理人は当初、Visa発行エージェント Hussai Qadir の家を訪ねるつもりで ラホール行を選ぶ予定だったけど、この警察署で車両込みのインドビザについて尋ねると、イスラマバードに行った方が良いという回答を得たので、イスラマバード行を選んだ。

再び警察車両で一時 Bloomstar へ戻る。
クエッタの街では、ちょうど前々日に自爆テロで警察関係者が4人死んでいた。パキスタンでは警察や政府関係機関を狙ったテロが未だ相次いで、もはや日常と化している。クエッタの警察官も、わざわざその事について我々に言及してくる様子もないし、それによって行程に影響がでることもなかった。

キャンピングカー泊

NOCの発行に関するあれこれで既にお昼をまわっていたため、この日は全員もう1泊クエッタに泊まり、明日の朝出発することになった。

クエッタで同行しれくれた警察官達はとても紳士的で信頼できる人達だった。

現金を下ろしたいと相談したところ、市内のStandard Chatered のATM に連れてきてくれた。無事引き出すこともでき、現金が手に入る。
しかし、SIMに関しては相変わらず店が閉まってしまっているという理由で買うことができなかった。

この日、Bloomstar にもう一泊するか悩んだ。
金額的には大したことはないのだけど、カウンタースタッフの態度がうざかったので、イラン人夫婦の二人ととんずらをかまし、代わりに警察施設に連れて行ってもらうことになった。

クエッタの警察署施設内に停めたテネレ。この施設は牢屋も兼ねているようで、「ぶち込まれてる」囚人が何人かいた。

日が傾くまでの間は職員の寝泊まりスペースを使っていいとのことで、そこで遅めの昼を食べる。
またもや Mohammadhussain と Narges の世話になってしまう。
彼らのあっぱれなところは、決して食事を欠かさず、そして必ずその度にチャイを飲むことだ。管理人はちょっとめんどくさいとすぐに食事をパスしてしまう癖があるので、彼らを見習いたいけど、バイクはそんなに食糧を積めないからなかなか難しい問題ではある。

夕方になってからは職員スペースを追い出されたので、Mohammadhussain と Narges のキャンピングカーに居候させてもらう。

夕方、周辺の家に住む子供たちがキャンピングカーを訪ねて来た。明らかなアーリア系の顔つきではなく、ややアジア寄り おそらくウズベクやタジクの血が垣間見える顔つきの子もいる。

物珍しい来客でテンション上がり気味の子供たちが元気に遊びまわっている。

男子が皆サルワール・カミーズなのに対して、女の子は多様な民族衣装を着ていることが多い。

今にも天井が抜けそうな廃車の上で遊んでいても、親は一切出てきやしない。まぁこれでいいんだよなきっと。

結局、この日はイラン人夫婦のキャンピングカーの中で3人で川の字になって寝た。夜は気温も下がり涼しく、思ったより快眠することができたようだ。

Zhob へ

朝、クエッタの警察施設を出発する。

まずは キャンピングカーのパンク修理にやってきた。

めちゃめちゃ手際よく修理がおこなわれていくが、、、結局このタイヤはこの再びパンクすることになる。

クエッタを出発しても、相変わらず護衛車の入れ替わりとチェックポイントはつづく。

信じられないくらい遅いペースの護衛車が多く、気持ち的にはイラつかずにはいられない。

ほんの稀に、エスコートカーの交代位置に距離があることがあって、その場合はその間だけ護衛車なしで走ることができる。

何かの果樹園だろうか。

デコトラ。

農園から出て来た少年たち。何とも不思議な顔つきだなぁと感じた。目元はコーカソイドのそれだけど、肌色は褐色がかっていて瞳の色は薄い緑色、髪は色素の薄い褐色~黒。パキスタンでは 男女ともにこんなような人たちに出会うことが多い。

まるで葉桜のような低木が連なっている。

デコトラ。

かれらは典型的なバルーチ人といったところだろうか。

ひび割れ陥没は多数あるものの、舗装状態は概ね良い。

草原に簡易住居を建てて、羊やヤギを放牧し生活する人々。2023年の今でも こんなプリミティブなライフスタイルを普通に見ることができる。

とある交代ポイントにて。

デコトラのバリエーションはめっちゃ豊富。テネレ×デコトラも撮れた。

タンクバッグからカメラを取り出すとダッシュで逃げ出した少年。

再び、護衛車のいないエリア。キャンピングカーとは一時的にはぐれてはチャックポイントで再会 を繰り返す。

ガソスタの脇なんかには集団でデコトラが停まってたりする。

小さな村をいくつも通り過ぎる。

このまま護衛車なしで走らせてくれと思っていると、次のチェックポイントで止められる。


護衛さえなければ、綺麗な景色もそれなりにあって楽しかっただろうに。

まぁでもこれがバロチスタンのルールだから、仕方がない。

護衛車の交代が遅い中日が暮れ始めると、「もう行っていいか?」と聞いてみるものの、”5 minutes” という返事しか返ってこない。

まるで巨人が横たわっているように見える巨岩。Face of Balochistan と呼ばれる。

夕暮れのバロチスタン Zhob の手前 50km くらいだろうか。

広大な農作地がハイウェイの左右に広がる。

小さな川の支流もちらほらと現れる。もう少し東にいけば、広大なインダス川が流れる。インダス川は名前的にインドに流れていると想像する人が多そうだけど、水源域こそインドと中国の国境付近にあれど水系の大部分はパキスタンを流れている。

デコトラ。

今日の目的地、Zhobの街に近づいてきた。

Zhob ではやはり警察施設内に泊まることになった。施設に着いたのは、すっかり日が暮れた頃だった。

部屋を借りることもできるようなできないような雰囲気だったけど、お金がかかる的なことを言い出したので施設内にテントを設営した。

うれしかったのは、なんと今まで一切こちらの食事の事など意に介していなかったパキスタン警察が、この時は食事の差し入れをしてくれたのだ。実際には食事を持ってきてくれたのは施設内で働いている丁稚風な少年だったので、パキスタン警察が気をつかってくれたというよりは、単に少年たちの厚意だったような気がする。

Dera Ismail Khan へ

朝になると、警察官が集まってきて 出発を催促しだす。

Zhob の街の雰囲気。まぁどこも似たようなもんだ。

近代的なビルディングがかなり浮く。

家屋も色々とバリエーションがあるけど、泥レンガを固めたような外壁が多い。パキスタン中~南部でつかわれる焼成煉瓦は、道中見て来た煙突内でつくられている。これが、更に北部になると煉瓦の種類が変わり、石造りの家が多くなる。

キャンピングカーの給油を待つ。

既にうんざりな護衛走行が今日も始まる。今思えば、もはや無視して好きに止まって写真撮ったりしてもよかったなぁと思ったりする。

今日のルートで、バロチスタン州から抜けるため、そこでエスコートが終了するだろうという望みがあったが、、、

途中、交代ポイント。国境からここまでで、一番長い待ち時間だった。

気温は約40℃。日差しがとにかく強く、肌を弱火で焼かれているような感じ。護衛車の荷台に避難して待つ。もう行っていい?と何度聞いたことか。

横転したまま放置されたデコトラたち。無理な追い越しが多いから、まぁ当然っちゃあ当然の結末。現地の運転を見てると、本当に死んでもいいと思ってるとしか思えないようなのが多い。不安遺伝子とかの問題じゃないだろ、と思う。

ほんのひと時、護衛車交代ポイントが離れている時だけ自由になる。

バロチスタン州の終焉にかけて、やや険しい山道が増えてくる。

Balochistan と KPK の州境

バロチスタン州北東部の自然。インダス川支流の恩恵を受けた穀倉地帯もちょこちょこと見られるけど、大部分はひどく乾燥した大地が広がる。

デコられるのはトラックやバスだけじゃない。

やや干上がり気味の川を歩くバルーチの男。

そしていよいよバロチスタン州とKPK州の州境に近づいてきた。

この青い看板が、ちょうど州境を示すらしい。

たぶんちょうど峠にあたる場所が州境になっているのか、この界隈は道幅が狭く、ゴツゴツとした岩盤がせり出す何ともADV感の強い道で、国境からここまでで一番楽しい場所だった。山腹を行く道の片側は常に深い谷になっていて、そこにはインダス川の支流が流れる。人の居住エリアから離れているためか、川の水も綺麗にみえる。

Mohammadhussain と Narges と、「これで護衛おわりだね!」とぬか喜びをしていたが・・・・

こんな険しい道を、デコトラは慣れた運転で通っていく。

岩のせりだした狭い山道を進むデコトラは、一入に迫力がある。

パキスタンの言語は地域によって様々だけど、ほとんどの地域でウルドゥー語が話される。いくつかの言葉はアラビア語に似た発音が多くて、アラブ諸国で覚えた言葉が少し使える。
日本人からすると、アラビア語もペルシャ語もウルドゥー語も、表記されるとどれも同じように見えるけど、イラン人夫婦がさっぱり読めないのを見ると、どうやら全然違うらしい。日本人が漢字使ってるのに何で中国語読めないの? って感覚に近いのかもしれない。

さぁ、ついに護衛車がいなくなった!意気揚々に走りだす。岩がドーム状に突き出したような道がつづく。

途中発見した吊り橋。

言葉にするのは難しいけど、イランで見た自然とは何かが違う、もっとなんかこう、粗々しい。

今にも底が抜けそう。

結局つづく護衛

と、いい気にはしゃいでいた矢先、またもやチェックポイントで止められる。

ここでもパスポートやNOCの提出でかなり時間を食った。
そして護衛はこの後もつづく的なことを言い出す。

護衛はバロチスタンだけだって言ってたじゃないか、どうして人によって言うことがいつも違うんだ、とややこちらも不満気に抗議するけど、全く取り付く島もない。

このチェックポイントは護衛なしで通過することができたけど、どこかでまた合流されるらしい。

広がった渓谷の谷底に川と平原がつづき、その背後には山稜が聳える。この景色はバロチスタン走破の中の数少ない救いだった。

道路の片側一車線全て崖崩れで消失している なんて場所はそこら中にあって、落石も激しい。

州境を越えて、道はだんだんと山岳道路から平坦になっていく。

左右を低木に挟まれた道がつづく。

70cc のバイクに荷台をつけ、そこに燃料と子供が乗り込む。
そして残念ながらここのガソリンスタンドで、護衛車が待ち構えていた。

管理人たちが止まるチェックポイントでは、デコトラも同様に止められてなにやら書類のチェックを受けていたりする。

崖崩れや工事で車幅が狭くなっている所を、トラック同士がせめぎ合う。

異常にタイヤを積み込んでたり、

なにかを積みまくって横にはみ出しまくったトラック。

放牧されるヤギの奥にみえる住居。

穀倉地帯に夕日があたって金色に輝きだす。

Dera Ismail Khan の街が近づいてきた。どうやら今日も警察施設に行かなければならないようだ。イラン人夫婦と何度ももうエスコートは必要ないからと抗議しても、全く効果なし。もし最初からそれが決まっていたのであれば、なぜクエッタでNOCを取得した段階で説明しないんだろうか?

バロチスタンで護衛は終わり”No Police,you’re free!” とか言うヤツがいて、それを信用してたらチェックポイントで別の警察官が、護衛はパキスタン国内あらゆる場所で必要だ とか言い出すやつもいる。全く一貫性がないのがとにかく鬱陶しい。

Dera Ismail Khan 郊外。
おまけにこちらの休憩や食事への配慮が全くないのは相変わらずで、こっちから積極的に休憩を申し出ないとノンストップで走り続ける。おめーらは交代交代だけどこっちは朝からずっと走ってんだよ、と言いたくなる。しかも人によってはラマダンを強調してくるウザい輩も少なくない。
この高温の中ろくに休憩もなしに1日中走ってるのに、水を飲むことに嫌悪感を出してくるやつの視野の狭さには辟易を通り越して呆れるけど、こういう保守的な地域の保守的な人間の視野なんて期待するだけ無駄だ。頭の中の世界が完全に違うのをこちらから慮る他ない。

黒煙を上げる煙突。この煙突の内部では、実は焼成煉瓦がつくられているのだ。

Dera Ismail Khan は、略して Dikhan と呼ばれている。Dikhan の中心地付近に到着した。

当然街を見て回ることもできない。

Dikhan の警察施設に到着。今日はここで泊ることになった。

“Officer will come” と言われたので、きっと誰か偉い人がやってくるだろうと待っていても、全然だれも来ないので、Mohammadhussain と夕飯をつくりはじめた。彼らのガスバーナーが不調なので、管理人のストームブレイカーを使う。今のところ各国のガソリンで問題なく機能している。

警察施設内で勝手に火をおこしても、何も言われないのはいい加減さの裏返しで、いいような悪いような。

結局この日は数人の警察官が話をしにやってきたけど、彼らの間で情報共有がされてるのかは謎。いい加減SIMを買いたい事、Dikhan の後の護衛の有無について、など大事な事に関しての返事は要領を得ない。
ただ、この応接間のような一室を寝室として使わせてくれた。ありがたさとウザさの葛藤。

Islamabad へ

朝、応接間に設置された簡易ベッドはMohammadhussain と Narges に譲った。管理人は脇のソファで眠ったが、絶妙にダメな長さでよく眠れなかった。

二人愛用のボトル型ケトルでお湯を沸かす。2人とはもう6日も行動を共にし、苦楽を共にしたことですっかり仲良くなっていた。

支度をして出発する。
今日ついに、首都のIslamabad; イスラマバードに到達する。ただし、ここからイスラマバードまでの道、最も楽なM-14の高速道路はバイクでの走行が不可だという。
「このバイクは700ccあって車より速く走ることができるから問題ない」と説明しても、ダメだった。まぁそれは仕方ないか。国内を走るメインの排気量は70cc~100ccで、それを基準にして2輪の走行可否が定められている。

ってなわけで、この日はイラン人夫婦のキャンピングカーとは別々に、ソロでの走行となった。

Dikhan の街のゲートにて。

本日もクソだるい護衛車の後ろを下道でついていく。当初は5時間で着くと言われていたが・・・

早速交代遅延で大幅に時間をロスする。

首都に近づいているというのに、この日の道路の舗装状態は今までで最悪だった。

広大なインダス川を渡る。

しかも護衛車がやたらと遅い。ひどいときは時速40km程度の速度だ。わざとやってんのか?とイラつく。いっそぶち抜いて先に行ってしまいたいが、どうせ数十キロ先で交代車両に止められる。

何度かインダス川と道がクロスする。

この深緑のデコバン、いい雰囲気だねー。

ダートと舗装路が交互につづく。おせーし、全然距離がのびない。

状態の良い舗装路に出ても、一向にスピードが上がらない護衛車。〇ソ過ぎる。おめーらはタラタラ一定区間走ったらお役御免でタスク終了だからな。と不満が募っていく。

小さな街が十数キロごとに点在する。

ダートでは対向車や先行車の巻き上げる砂ぼこりで何も見えなくなる。シールドもなにもかも砂埃まみれ。

途中、ちょうど車両交代のポイントにスイカが売っていたので、貪るように食べたけど、スイカだけじゃなかなかエネルギー補給にはならない。
他にも、途中停車ポイントで水場をみつけては水を頭から被って体を冷やす。

この日の距離は360km程度だったけど、先行護衛車のノロノロ運転と、ダートの多さ、そして休憩と補給ができないことで想像以上に消耗していた。夕方あたりから明らかな疲れを感じはじめる。

塀の向こうに見える絶景を、止まって撮ることもできないし、そんな余裕もなくなりつつあった。

もうそろそろ着いたかな というところからまたダートが始まり、完全にHPがゼロに近づく。

いよいよイスラマバードの50km程手前で、ついに護衛車両がラスト1台と告げられパスポートを返却された。もうすでにプッツン状態だった管理人は、最後待機していた警察車両の脇を140km/hでスルーして最後の護衛をぶっちした。
幸い追ってはこなかったが、今考えるとややリスキーな行動だったかもしれない。血糖値も下がっていたが、他の異変が身体におきていることに、この時はまだ気づいていなかった。

完全に暗くなってから、イスラマバード市内に到着。結局出発から8時間以上が経過していた。ホテルはまだブッキングしていなかったから、宿探しをしなければならないけど、既に体力が底をついているような状態で、詳細に調べる気力がない。というかSIMもまだ買えてないから、オフラインマップ上に表示されるホテルを何となくの雰囲気であたっていくしかない。

幸い、明らかに疲れ果てた様子でスマホをいじっていたら、現地のおっさんが、「外国人は Blue Area に行くといいよ」と教えてくれた。
藁にも縋るような気持ちで、言われた通りイスラマバード中心部の Blue Area に行くと、それなりにちゃんとした宿がいくつか密集したエリアがあった。
内、いくつかは外国人の宿泊お断りだったので、外国人宿泊可能な宿にチェックインして、死ぬように眠りについた。

つづく

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