【Republic of Lebanon episode 3】Byblos ビブロスから Tripoliトリポリまで レバノン沿岸北上ツール


こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

ベイルートを拠点として、レバノン滞在中に可能な限りいろいろと巡ろうと思います。
まずは海岸線に沿って北上し、主要な都市を見て回る計画にうって出ました。

フェニキア人の故郷 Byblos

海岸線の主要道路はなかなか交通量が多かったけど、ベイルートから離れると少し走りやすくなった。

ビブロスの街に着いたところ。小さな教会と、ボート越しに見える眺望。

なんとも長閑で美しい雰囲気になってきた。

街角にバイクを停めて、2足歩行で徘徊するとしよう。

FIAT に LG の日よけとな。

ダマスカスの記事で触れた、紀元前1,200年ごろより台頭するセム系トリオのうち海上貿易で繁栄したのがフェニキア人。その拠点はここレバントから北アフリカ(カルタゴ)、イベリア半島にまで及んだという。そんなフェニキア人の最初の故郷として栄えたのがここビブロスらしい。
ギリシャで輸入されるパピルスの中継点だったことから、パピルスとビブロスは同じような意味合いを持ち、都市名と品目名が混同したとかしないとかで後にビブル;即ち聖書の語源となったとかなってないとか。

ビブロスのオールド・スーク。
まだ午前9時をまわったくらいの時間だったからか、ポツポツと店が開きだすタイミングだった。

ビブロスの遺跡は世界遺産にも登録されているから、観光客も多いんだろう お土産屋も沢山ある。

石の壁に重厚な木の扉。こんなガレージあったら最高だなぁ。
中には世界旅を終えたテネレと、ヨンダボ、できれば68年式のアルファロメオ ジュリアに大量の工具と猫が3匹・・・・
猫はサビとデブトラと黒猫かなぁ。

ハットをキメた渋いおっさんが朝っぱらから1杯ひっかけおる。

ん~ レバノン!杉。

スーク先のアーチを通て更に先へ。

この旧市街感がたまらん。

朝の店支度をしてるのかな。

石づくりのアーチ下に軒を連ねるお土産屋は、

化石屋がやたらと多い。実はレバノン山脈の一部は白亜紀後期の海底隆起による地層があって、極めて保存状態のよい化石を産出することで知られてる。いつかまた買いにこよう、うん。
ヨルダン~シリア~レバノンは、クリスマスが終わってもツリーを飾り続けるという文化において共通することはよくわかった。

独断と偏見による MVP of 扉 in Byblos.

ビブロスの街にも教会はいくつかあるなか、ひときわにオーラを放つ St. John’s Catedoral. 1115年に十字軍によってつくられ、その後18世紀に修復されたみたい。

John; ジョン とは、ヨルダン川でイエスを洗礼し、その後サロメの願いによって首を斬られた洗礼者ヨハネの事。”J”はヤ行で発音することが多く、アラブ諸国ではジャパンというよりヤパンという方が伝わる。

敷地内にはきれいなガラスのモザイクワークが多数展示されていた。

欧州に多い絢爛なゴシック建築の教会もすごいけど、こういう石造りが露骨に表面的で質実な印象の聖堂も味わい深い。

明・暗所混同の画角で、暗い側のコントラストを明確にすると明るい側が白飛びする問題のうまい解決法ってないんかな。暗い側に合わせてフラッシュたくしかないのか、ミドルレンジ機の限界か。ダイナミックレンジに悩まされる度に人の眼の秀逸さを思い知る。

さて、ビブロスに来たら欠かせないのは世界遺産に指定されたサイトの遺跡群。
入場料はたしか200,000 LBP = 当時ブラックマーケットレートで約600円だったと思う。

ビブロス遺跡の黒猫。

敷地はなかなか広大で、例のごとくフリーサイト感つよめだけど、一応通路らしきものがあるので、なんとなくそれに沿う。5,000年以上前のフェニキア人による建築物跡から、ローマ期の遺跡まで、まさにオリエントの縮図といえるような遺跡群がこの狭い範囲に集中している。

サイト内でもっとも大きな建造物の Byblos Citadel は12世紀、やはり十字軍によってつくられた要塞。

 

 

Citadel 内部は迷路のようで、外に出たり、行き止まりだったり。

一室は簡単なミュージアムを兼ねていた。ほとんどの出土品はベイルートの国立博物館にあるという。

これが、アルファベットの元となったフェニキア文字か、、、Yehimilk 碑文とよばれるこの碑文は紀元前950年頃の石灰岩に刻まれた碑文で、バアル神に関する言及がある。Baalshamin は古代中東における空や天の神で、ダマスカスの記事で登場した Hadad 神とも関連づけられ、地域によっては同一とされることもあるみたい。

Byblos Citadel から海側を眺める。

真冬の北半球だというのに春の様に緑緑としたサイト内を歩いていく。

英ウィキペディアだと紀元前1,600年頃につくられたというオベリスクの神殿。現地の看板には「紀元前3,000年紀の終わり」と書かれていたけど、いずれにせよローマ以前の、フェニキア人によるもの。フェニキアの最高神 El; エール神を直接祀ったとされる構造物は 世界広しといえどほとんど存在していないらしいけど、このオベリスク像は直接ではないにせよ それに関連した神が祀られていたと考えられている。オベリスクと聞くと、パリのコンコルド広場にあるような巨大な塔をイメージしてしまうけど、ここのは形こそオベリスクのそれと同じながら高さは1~2mとこじんまりしていた。

Othman Al Housami House.
オスマン帝国時、19世紀に建てられたHoussami 家の屋敷。

いやーしかし本当に晴れてよかった。

Astarte Temple の列柱。
現在見られる列柱群はどうみてもコリント式で、おそらく後年ローマ期に修復されたもの。でも、Astarte; アスタルテはフェニキアの豊穣や愛を司る女神で 神殿が最初に築かれたのはやっぱり5,000年近く前に遡る。

ローマ期の円形劇場。

この円形劇場の客席前にある劇場部分は、なんだかやけに小さかった。

その他にも石棺や、碑文、

巨大な井戸?など、フェニキア人の遺した跡やローマ期の遺跡がサイト内に沢山みることができる。

ビブロス城をバックに。

遺跡を見終わってバイクに戻る頃は、スークがだいぶ賑わい出していた。

ビブロスの船揚げ場にやってきた。

水の透明度がすごい!小魚が沢山いる。

船揚げ場の船たち。

Batroun でライダーとの出会い

ビブロスを去り、また少し北へ向かっていく。

その道中、サイドミラーになんだか2つ目ヘッドライトの古めかしいバイクが現れたと思ったら、ひと昔前のアフリカツインに乗る現地のライダーだった。
彼の名はBassem. 少しだけBatroun を案内してもらった。

Our Lady of the Sea Church.

礼拝堂内。

岩のアーチから釣られた豪奢な照明というコントラストがまたなんともいい。

この教会の海側のバルコニーから、“Phoenician Wall” を見ることができた。
もともとは自然堆積物でできた隆起に、古代のフェニキア人たちが岩などを積み重ねることで今の形になったという。街を嵐や津波から守る防波堤の役割を果していた(今でも果たしている?)。

Batroun の美しい路地にて。

Bassem が撮ってくれた。

Batroun の港にやってきた。中央にみえるのが St.Stephen Catedoral.
その右下にちっさーくテネレと旧アフツイが停まってる。

港の船はほとんど全てが陸揚げされている。

春~夏にはこれらが全て海に浮かべられるという。
ペイントがやたらカラフルな船がたくさんあって、思わず沢山撮ってしまった。

カテドラルの内部にも入れた。

いかにも古そうにみえるけど、つくられたのは20世紀初頭らしい。
ゴシック様式とビザンツ様式がミックスされているとあるけど、建築様式の違いって難しい。

Batroun のオールドスーク。

Bassem におすすめしてもらったシュワルマの店にて休憩。彼とはここで別れた。

Statue of sponge diver.
天然の海綿はスポンジとして利用されるけど、特に地中海産の海綿は高品質のスポンジとして取引されるというのを、この像を見て知った。
この像は、数十年昔の海綿採取のダイバーの姿をしている。網の中の丸い物体が海綿だ。

Tripoli で夕暮れへ

Batroun を出発して、更に北へ。大都市 トリポリへやってきた。リビアにも同名の都市があるから、アラビア語名でタラーブルスともいう。

Taynal Mosque.
誰かが亡くなったばかりのようで、入口には棺をかついだ男たちがいて、内部には入りづらかった。

タラーブルスの街も、他の都市と同様賑やかで喧騒にあふれてるけど、中心部には遅くまではいないほうがよさそうだな、と感じた。
なにが?と問われると難しいけど、行き交う人の表情とか 本当に些細で粒さな雰囲気を 無意識に感じ取ってそう思った。

Sultan Abdul Hamid Clock Tower 前にて。

👍ポーズのおっちゃんが撮ってくれた。

 

時計塔前の広場周辺は、特に賑わっていた。

広場を抜けて、スークらしき路地を抜けていく。ほぼ1車線なんだけど、前から車来るし逆走なんじゃないかと不安になりながら進んでいく。

激坂を上り、Tripoli Citadel の城壁が見えるところまでやってきた。この画角の手前にはレバノン軍の戦車が数台停められていた。

坂の上から。
この場所で写真を撮っていたら、福祉活動家的な女性2人に声をかけられコレラのワクチン接種をしないかと勧誘された。
超絶に断ったけど、まさにレバノン国内での感染アウトブレイクを肌で感じる瞬間だった。

トリポリ城塞の傍らから、アボウ・アリ川の東側の斜面にびっしりと並ぶ家々を臨む。

図らずもいい景色に出会えた。

山の斜面に密集する家のバルコニーには洗濯物が無造作に干され、そこに斜陽がさして生活感がひとしおに醸される。

坂を反対側に降りた橋から振り返ると、トリポリ城塞の全体像がようやくつかめた。
第1回十字軍がエルサレムを陥落させた後の1102年にレーモン4世がこの地でイスラム勢と戦闘を開始して、トリポリ伯国を建国する。レーモン4世のまたの名にちなんで、Citadel of Raymond de St. Gilles とも呼ばれるトリポリ城塞は、その時に建てられたのかと思いきや、英Wikiでは”enlarge” と説明されているから、もしかしたら原型はファーティマ朝属州の時代からあったのかもしれない。
いずれにせよ現在こうやって見える姿の大部分は19世紀にオスマン帝国によって修復されたもので、十字軍時代の構造の大部分はマルムーク朝によって破壊されたという。

さて、今度は海側へ行ってみよう。

海に突き出したMina地区へ向かう途中、廃墟になった駅舎のようなものが見えた。

近づいてみると、やはり古い汽車が打ち捨てられているではないか。

乗り物×廃墟 のコンビは破壊力抜群だと思う。

奥にも違う駅舎と、外にも雨ざらしの車輛があった。

今まさに、人工物が緑に駆逐される過程にある。

そんな感じで鉄道廃墟で遊んでいたら、停めていたバイクの近くでおっさんが待ち伏せしていた。
何言ってるか全然わからんけど、「おれもバイクもってるから見に来い」的なニュアンスだけ伝わってきた。

どうせ今にも壊れそうな原付だろ?とか思いながら来てみると、なかなかいい感じのバイク屋だった。

店内。
ヤマハとホンダとスズキのオフ者が3兄弟みたいに並べられていた。変な原付だろ?と疑ってすまなかった、おっちゃん。
オレンジジュースまでご馳走になって、適当においとまして港へ向かう。

ちょうど逢魔時、

地中海の平線、空と海の境が不完全燃焼したコンロのように赤く焼けるのを眺めながら、暗い中ベイルートまで戻るのめんどいなーと思いながら北上Tour を終えるのであった。

おまけ

ベイルートの宿はキッチンがしっかりしていたから、節約のために夕飯は自炊をしていた。

やたらとでかい単位でしか売ってなかった米だけど、アンマンで1kgのが売られていたから買っといてよかった。

鍋での米炊きはもはや完璧の域に達している(?)

スーパーで切り売りの肉を焼いて、

ステーキ丼。

つづく

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