【Republic of Turkey episode 47】メヴレヴィー教団の回転舞踏と預言者ムハンマドの生誕祭

どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。

コンヤといえばメヴレヴィー教の本拠地、そしてメヴレヴィー教といえば旋回舞踏。
せっかくコンヤに来たのだから多少お金を払ってでも見てみたいと思ってRecepに相談すると、舞踏を一般公開している場所を教えてくれた。

Sema Dance; メヴレヴィー教団の回転舞踏

というわけで、とある日の夕暮れ時

Recepに教えてもらった場所にスクーターを走らせる。

やってきたのは Mevlana Cultural Center.
無事入場できるのか不安だったけど、完全なフリー入場でお金もかからなかった。
さすがコンヤ。

円形のスタジアムのような会場に入ると、ちょうど舞踏が始まるところだった。

メヴレヴィー教の Sema; セマ舞踏 はスーフィズムにおける神秘主義に基づいて厳密なプロセスを踏むことになってるらしい。
Semazen;セマゼン とよばれる舞踏者(もとい修行僧という方が近いのか…)は最初Cüppe; チュッペ と呼ばれる黒いマントを纏っている。
これは俗世での死を象徴していて、舞踏が始まる段階でセマゼンはチュッペを脱ぎ捨てていく。この行程は「現世からの離脱」を象徴していて、なんだかちょっと仏教的だなぁ とか思ったりする。

全てのセマゼンが黒いマントを脱ぎ捨てて、一列に並んだところから セマ・ダンスの象徴的な回転舞踏が始まる。
チュッペの下から現れる真っ白な衣装は、Tennure とよばれるスカートのような衣とHırka というベストのような上着で構成されていて、死後の魂やその純潔性を象徴している。頭に被っている長い帽子は フェルト製の Sikke とよばれるもので、これは自我の精神的な死→それを表わす墓標を象徴している。

セマゼンが順々に回転を始めて、やがて全員が一定の間隔を保ったまま回転をつづける。
楽団が奏でる音楽と共に、「神が創造した宇宙との一体化」や「神の愛に包まれる恍惚状態」が表現されていくらしい。

ある程度観光化されたもので、本当にシリアスな回転舞踏ではないのかもしれないけど、こうやって文化的な中枢らしきものを直に目撃できるのは、バイク旅とは関係なく素敵な瞬間だ。

色々な楽器が演奏される生楽団。
特に印象的なのは Ney; ネイと呼ばれる笛の音色で、どこか物悲しい郷愁に満ちた響きをしている。
Ney は、葦の茎から手作りされる笛で、回転舞踏において最も重要な楽器とされている。
「原野から刈り取られ笛となった葦」と「神の元から離れ俗世で生きる人間」が、比喩的に対比されていて ネイの音色は 元々葦が生えていた原野 すなわち人間の魂が立ち返る神の元への郷愁を表わしているのだ。

Taksim と呼ばれる Ney の独奏パートもあり、Ney の音色はセマゼンたちの魂を神の元へと導いていく。

回転舞踏が終盤に差し掛かると、セマゼン達の両手の掌は、右手が天に、そして左手が地へと向くようになる。
これは、神の真理に触れたセマゼンが、その祝福を地に伝えるという構図を表わしている。

スーフィズムの代名詞ともいえるセマ回転舞踏、
調べれば調べるだけ奥が深いけれど、まずはその実物をコンヤという地で目撃することができてよかった。

Mawlid al‑Nabi; たまたま預言者ムハンマドの誕生日だった

さて、セマ・ダンスを見た日は なんとたまたまヒジュラ歴における預言者ムハンマドの誕生日だった。

当然、ムスリムにとっては特別な日というわけで、コンヤのモスクというモスクのまわりは、これを祝福すべく沢山の人が詰めかける。

クレーン車によるカメラクルーもはいる。

セリミエ・モスクの中になんとか入ってみると、礼拝室の中はこんな状態。
おっさん達の熱気で息苦しいけど、明らかな観光客が入ってきても追い出さないでくれる寛容さには感謝。
モロッコとかのモスクだったら間違いなく追い出されるどころか、入ることすらできない。

モスク前面、横、後面、

ありとあらゆる敷地が 預言者ムハンマドの生誕を祝うムスリム達で埋め尽くされた夜なのでした。

つづく

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