こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。
首都アシガバートを発ち、イランとの国境近くを東へと進んでいきます。短い短いトルクメニスタンの滞在ですが、まさに地獄の門の名にふさわしいガスクレーターから、異様なほどに整備された白大理石の街アシガバートを経て、次はシルクロードの要所であり中央アジア最大ともいわれる古代遺跡を目指します。
ここまでのルート
Mary;マリーへ
アシガバートからマリーへの道中には、15世紀半ばに建てられたとされるティムール期の Seyit Jemaletdin Mosque や、人類最古の濃厚集落のひとつがあったと考えられているアナウの街を通り過ぎる。
特にセイット・ジェマレッディン・モスクはトルクメニスタン国内にある貴重なティムール時代の遺構らしいけど、残念ながら1948年の大地震によって今はこのような姿になってしまっている。
アシガバートからマリーへの道は、概ね良好といった感じ。
中央アジアは旧ソ製のかっこいいトラックを沢山みかける。
真っ赤なジグリ(Vazの現地の呼び名)と。
ひたすらに真っ直ぐなカラクム砂漠の道を東に進んでいく。
トルクメニスタン南部を走る鉄道。
マリーの街に着いたようだ。
マリーの街でひときわ輝く黄金ドームに白亜壁の Mary Chief Mosque.
メインの通りはアシガバートほどではないにせよ非常にきれい。ただ路地に入るとやや荒れだす。
夜になると、新婚さんが MARY のモニュメントの前に来て記念撮影を行っていた。
Merv; メルブの古代遺跡
マリーを出発した後は、もうトルクメニスタンを出国することになる。その前に、道中 マリーの中心から北東に20kmほどの場所にある Merv;メルフの古代遺跡に立ち寄る。
遺跡は広大で、アケメネス朝時代からイスラーム化、そしてモンゴル軍による破壊の後のウズベク系による再興物まで、様々な時代の遺物が入り乱れた遺跡になっている。
ラッキーなことに、今回入国の依頼をしたエージェンシーのメンバーのひとりが、「暇だから」という理由で特に料金なしでガイドをしてくれた。彼が持参してくれたメルブの図書に分かりやすい地図がある。この地図にあるように、メルブの遺跡は、「Erk Gala; エルク・カラ」→「Gawur Gala; ギャウル・カラ」→「Sultan Gala; スルタン・カラ」という3つの城壁によって区分けができる。
エルク・カラが最も古く、アレクサンドロス帝国(マケドニア帝国)の東部属州時代 紀元前4世紀頃、その後 紀元を跨ぐパルティアの時代にギャウル・カラが、そしてイスラーム化後のセルジューク朝の時代 11-12世紀にスルタン・カラがつくられた。
遺跡内の全てを周るのはとても不可能なので、ランドマークとして重要な遺構を選んで巡ってみる。
これは、Great Kyz Kala と呼ばれる建物で、つくられた時代も目的もよく分かっていないらしい。概ねササン朝後期~イスラーム初期と考えられていて、今から1,300年前後も前のものということになる。
これが、Great Kyz Kala の復元想像図。
走ってる道中にも、沢山の小さな遺構が点在しているのが見える。
Askhab Mausoleum.
預言者ムハンマドの最初期の仲間である7世紀のAbu Dhar al-Ghifari と、Abu Buraidah al-Aslami の石棺が、中に鎮座されていた。後ろのイワーンは当初セルジューク期に建てられて、その後モンゴル軍によって破壊された後15世紀にティムール期に再建されたもの。
その廟のすぐ近くには、やっぱりモンゴル軍によって破壊された後に、ティムール期に再構築された水利システムの井戸らしきものがあった。アーチの下には階段があって、中には水が湛えられている。
そのまま東に進むと、メルブの中でも最も古い区画である エルク・カラの一画に辿り着く。
小高い丘のような道を上っていくと、
頂上にはマケドニア属州時代のものなのかよく分からない要塞があって、
さらにその上まで上ると、はっきりとエルク・カラのエッジを眺めることができる。
エルク・カラの近くでうろついていた時、トルクメニスタンの伝統衣装に身を包んだ若いカップルの写真を撮ることができた。トルクメニスタンはじめ中央アジアの伝統衣装は本当に美しい。
遺跡内の移動でさえ、まるで広大なオフロードを走っているような気分になれる場所もある。
比較的新しい建物の集まる Khoja Yusuf Hamadani の霊廟とモスク。
そしてここがメルブの遺跡内で最も重要なランドマークと言われる、スラタン・カラ内の Meusoleum of Sultan Sanjar ; スルタン・サンジャル廟。セルジューク朝期、メルブを含む地域(=ホラーサーンの一部)の統治者であった Ahmad Sanjar; アハマッド・サンジャルの廟として1157年に建てられた。
天井部分と、広い室内に比してどことなく寂しい中央の石棺。
この廟も同様に、1220年頃からのモンゴル軍の攻撃によって焼き払われたらしいけど、この内飾がオリジナルなのかはよくわからない。
さて、この遺跡を去ったらいよいよトルクメニスタンを出国する準備をしなくては。
おまけ
マリーの街で飲んだトルクメニスタン産地ビール(?)
つづく