【Hellenic Republic episode10】イピロスの中世首都 Arta; アルタの街と アンブラキコス湾に浮かぶ道

こんにちは、世界放浪2輪旅中の管理人です。

ギリシアの国土ほぼ中央やや西寄を縦断するように走るピンドス山脈の深部、ツォウメルカの山道から無事南部へと抜け イオニア海側へと進んでいきます。

ここまでのルート

Red Church of Vourgareli

朝、一体なんの目的のスペースなのかは分からないけど 一晩お世話になりました。

撤収して、30号線に沿って走っていくと

Paleochori Vourgaleriou という街に Red Church of Vourgareli という正教会があった。

外壁の赤い煉瓦から「赤い教会」と呼ばれるようで、つくられたのは1280年頃と古い。

“Cross in Square” というビザンツ様式のバシリカで、絢爛さは無いけど、質実で堅牢な雰囲気の外観。
もともとはカトリコンとして建てられた という記述があることから、13世紀当時は周りに食道や修道士房など 他にも沢山の施設があったんだと思う。多くは木造・半木造で 今では全部なくなっちゃって、この本堂だけが残ってる。

教会内部、祭壇方向。

内部のフレスコ画は1295-6年に描かれたものが残る。

こじんまりとしたイコノスタシス。

全く観光化されてないドメスティックな教会も、ふらっと中に入ってみると700年以上前のフレスコ画をさらっと見ることができるって やっぱり正教会の本場はすげぇなぁとか思ったりして。

Arta へ

さて、赤の教会を去って そのまま30号線を進んでいく。

煉瓦な雰囲気まで再現されたカンディラキア。

放置された Honda AX-1.

この辺は養蜂が盛んなのかな。

色とりどりの養蜂箱がかわいい。

Arta の街

そんなこんなで、Arta; アルタの街に着いた。
アルタは、第4回十字軍で分断した東ローマ帝国の後継国のひとつ エピロス専制国の首都だった場所だ (ちなみにもうひとつの後継国トレビゾンド帝国に関しては トルコのトラブゾン編で少し言及してる)。

Castel of Arta

街の北側に建っている Castel of Arta; アルタ城も そんなエピロス専制国時代の13世紀初頭に建てられた可能性が高いらしい。
ただ、現在みられるこの姿は、オスマン帝国時代に増築や改修を経た姿だ。

Holy Church of the Virgin Mary Paregoretissa

ちょうど中心部にある Holy Church of the Virgin Mary Paregoretissa; パリゴリティッサ教会にやってきた。

教会前のスクエア。

 

3階建てキューブ状バシリカの上に、メインドームと5つの小ドームが並ぶ 独特な外観をしてる。
1250年頃、先のアルタ城と同様 エピロス専制国時代に修道院カトリコスとして築かれた。

教会の回りを囲う外周壁には沢山木の扉がついてる。
かつてはここが修道院施設だったものの名残だろうか。

西側の入口から内部へ、

内部は様子は圧巻。中央ドームに施されたイエスの巨大なモザイクもさることながら、

その下の空間を支えるように配された8本の柱が独特な雰囲気を与えている。

それぞれの柱は3重の構造をとっていて、それぞれにコリント式の柱頭がつき しかも一番上の柱はさらに2本に別れる部分もあって 見た目的にもすごく複雑な構造をしている、とてもユニークな印象だ。

メインドーム下  パントラクラトール。右手が Bressing Sign じゃない。

西側内ナルテックスの柱のフレスコ画。

メインドーム下空間 1階部分の各内壁に残るフレスコ画。

イコノスタシス詳細。

北側の身廊

と、内壁のフレスコ画。

Arta’s Bridge と Eleni 一家との出会い

今度は、街の南西 Arachthos; アラクトス川に架かる古い石橋にやってきた。

最初の築造はローマ帝国時にまで遡るらしいけど、正確には不明。
エピロス専制国時代の13世紀に再建、さらに17世紀初頭 おそらく1602~13年の間にオスマン帝国によって再建されたものが現在の姿。

橋を見ている時、声をかけてくれた Eleni と旦那さん。
コーヒーと簡単な昼食をご馳走になって、色々と旅の事について聞いてくれた。
彼らとは 1年以上経った今でもたまに連絡をとりあっている。

息子さんの Dimitri. 既に様になってる👍

Ambrachian Gulf に浮かぶ道

アルタを去って、そのまま南西へと進んでいく。
Eleni に、Koronisia; コロニシア という場所がきれいだよとおすすめされて、行ってみることにしたのだ。

Ambrachian Gulf; アンブラキコス湾へとつづく水路と併行する道を走っていく。

背の高ーーーいススキみたいな植物がずっと道脇に生い茂ってるけど、

途中から視界がパっと開けて 湾全域が目の前に広がる。
アンブラキコス湾はラムサール条約に登録されていて、渡り鳥の重要な生息地らしい。管理人が通った時は、ヨーロッパフラミンゴの群れを見る事ができた。

Port of Salaora.
ここで写真撮ってるときに 野良犬に囲まれて 内明らかに目つきのヤヴァい1頭に襲い掛かられた。
不本意ながら、この時はやむを得ず思い切り蹴り飛ばす。

そしてここからの道が最高だった。
まるで湾に浮かぶような細いトラックが 先にある Koronisia の島までくねくねとつづいている。

海の上の小さな線路を走っているような、そんなような感覚だった。

Koronisia

そんな道の終着点にある Koronisia; コロニシアという村に到着。

村の北西、丘の上に建つ The Monastery of the Nativity of the Virgin Mary; コロニシアの聖母マリア生誕修道院

教会がつくられたのは10世紀末と古く、1670年にオスマン帝国の支配下で改築され 2011-15年に修復されている。
非常に裕福な修道院だったらしく、中世の修道士たちはアンブラキコス湾でウナギの養殖を行っていたらしい。

 

南側の木製屋根をともなうナルテックス。残念ながら閉まっていて中には入れなかった。

狛犬ならぬ、狛猫?

村落の南東にある、Koronisia Fortress; コロニシア要塞 を見に来た。

18世紀のおわりから19世紀初頭にかけて、当然このあたりもオスマン帝国の支配下だったわけだけど、実は当時州総督としてここを統治していた Mehmed Emin Âli Paşa; 通称 イオアニナのアリ・パシャ という人物の統治下で、ほとんど独立国家のような状態だったらしい。
その最大版図は現在のイピロス県全域にアルバニア南部、更にはギリシア中西部の一部にまで及んだ。
この要塞は、彼の統治下で建てられた とされるのが通説らしい。

イオアニナのアリ・パシャは、最終的に中央集権化を強めたスルタン Mahmud Ⅱ; マフムト2世によって粛清の対象となって1822年に処刑されるけど、このアリ・パシャの討伐は ギリシア側に反乱準備を整えさせ、「反オスマン」感情を惹起することで 後のギリシア独立戦争のきっかけのひとつとなる。

コロニシアの港。

その脇に、藁の傘が並んだビーチを発見。

今日はこの傘の下で野営決定。

アンブラキコス湾の西に夕日が落ちていく。

つづく

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