こんにちは、世界放浪2輪旅中の管理人です。
テッサロニキ市中の徘徊録を紹介したので、ウォーターフロントから離れて 丘の上に上って行った時に発見したものを追記しておこうと思います。
テッサロニキ 古代城壁とアクロポリス
エディルネ編の記事でも触れたけど、4世紀頃から特にトラキアを始めとするローマ帝国の東側領域内にはゴート族の侵入が始まっていた。これを防ぐ目的で建設が始まったといわれる城壁が 街の丘の上を東西に貫いている。
そんな城壁のすぐ目の前にあった Vlatades Monastery; ヴラタデス修道院
1350~70年代ごろに建てられた修道院で、当時はコンスタンティノープルに直接帰属する Stauropegion;スタウロペギオンだったという。
これはブルガリアの Samovedene の村にあった Monastery of the Holy Transfiguration of God と同じような位置づけになるんだと思う。
ここもまた、世界遺産のひとつだ。
修道院の後ろからテルマイコス湾が一望される。
外壁のパステルイエローがちょっと気になったけど、実は14世紀当時の構造が大部分残っている。スタウロペギオンという特殊性のためか、テッサロニキ陥落後もモスク化を免れてる。
ウィキペディアには
「ヴラタデスの修道士たちはオスマン帝国軍と協力して戦った」
という記述がある。ん?ビザンツ帝国側のはずの修道士たちがなぜ と思い調べてみると 史実というより伝承レベルでそういう言い伝えがあるらしい。実はテッサロニキは1430年の降伏以前に 1387年に一度オスマン帝国に占領されている。この時、ヴラタデス修道院は一度モスク転用されて内部のフレスコ画も塗りつぶされたらしい。
もしかしたら、その辛い目を知る修道士たちと オスマン帝国軍との間で 協力の代わりにモスク化を免れるような密約があったのかも・・・なんて想像すると面白い。
修道院の南西側 四方を塀で囲まれた中に小さな礼拝堂が建っていたけど詳細不明。Map上で名称すら確認できず。
先述の通り、4世紀ごろのローマ期に基礎部分が築かれたテッサロニキの城壁は その後もビザンツ帝国時代 オスマン帝国時代と 支配者が変われど街の防衛ラインとして 増築・強化されながら使われ続ける。
Andronikos Lapardas Tower
Anna Palaiologina Gate と Trigonion Tower
Anna Palaiologina Gate の周辺は入り組んでて面白い。
そんな城壁の内部、古代アクロポリスの一番北東の角にあたる場所に建っているのが、
Heptapyrgion; ヘプタピルギオン という名の要塞だ。
全部で10ある塔が城壁で繋がった多角形のような形をしていて、特に写真にある北側の塔群はテオドシウス帝の時代 つまり300年代終わり頃にまで遡るという説も、9世紀頃だという説もある。南側はビザンツ帝国期の12世紀にかけて増築されたらしい。
オスマン帝国による征服後も何度も修復されて要塞として機能しつづけるわけだけど、ヘプタピルギオンを有名にしたのは19世紀後半に刑務所として転用された後のこと、戦前の独裁政権時から2次大戦のナチス占領下、その後の内戦期と軍事政権にかけて国内の政治犯の収容所として悪名高い。
二次世界大戦期、ヒトラーは”ユダヤ・ボルシェビズム”を異常なほど警戒・嫌悪してたから ナチス占領下のギリシアでも共産主義者やレジスタンス関係者の逮捕は確かに存在したみたいだけど、政治犯の投獄が最も苛烈になったのは、戦後のギリシア内戦期のこと。
占領期にナチスと戦った最大勢力である ELAS(ギリシア人民解放軍)は、戦後には王党派・政府軍と対立。
もしもギリシアが共産化すれば、ユーゴのティトー政権と提携してバルカン全域が共産化しかねないと危惧したアメリカが 政府側を支援して徹底的な「赤狩り」が行われたのだ。結果、多くの左派や共産主義者が投獄されていった。
投獄者はひどい拷問にあったことも有名で、そんな経緯から ヘプタピルギオンは国家による政治弾圧と拷問の象徴になった。
今ではこうやって観光客がやってくる平穏な史跡だけど、数十年ほど前までは 血なまぐさい所業が行われてた場所だと思うと 聳える壁の隙間に未だ強い怨念が渦巻くような気がするのであった。
てなわけで、ウォーターフロント側のランドマークたちとは別に、
アクロポリスの遺構たちをまわる回でした。
つづく