どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。
もはやバイク旅とは関係ないただの観光録になってしまうような記事はすっとばしてもいいんじゃないかと迷いつつも、
一応備忘録という意味で記録しとかねば という強迫観念にかられて書いています。
今回は、観光スポットが膨大にある中で最もツーリスティックといえるエリア Historic Peninsula; イスタンブール旧市街に集中する観光四天王(勝手に命名)を見て回ってみようと思います。
Hagia Sophia
とある日、やってきた The Center of 観光地 の Sultan Ahmet; スルタン・アフメト エリア。
大きな広場の北東側に堂々と聳えるのが Hagia Sophia; ハギア・ソフィア大聖堂(現モスク)だ。前の記事に出て来たモスク同様、1453年のイスタンブール陥落後に教会からモスク化されたわけだけど、当時聖堂はコンスタンティノープル総主教座が置かれていた=つまり正教会の最高権威だったことから メフメト2世が陥落を成し遂げたその日に、モスク化が宣言され 即改修されて オスマン帝国 最初にして最高権威のモスクとなったのだ(一般的な傾向として、教会としての重要性が高いほど、モスク化される時期も早かった)。
もっとも初期の教会は、まだ東西ローマ分裂前の360年頃で その後焼失→再建→焼失を繰り返した後の537年 東ローマ帝国 ユスティアヌス帝の時代に現在の原型となる巨大な聖堂が完成した。元々あったバシリカの再建ではなく、完全に新しく設計・建設されたもので、当時の技術者・材・財の限りを尽くしてつくられた聖堂だったけど、あまりの巨大さ、重さから 構造的な損壊が相次ぎ その後何世紀にも渡って修復・再建・増築・補強が繰り返され 現在の何だか一瞬ガンタンクを連想してしまうような(不敬ですまん!)姿になっていったらしい。
管理人が訪れた時 堂の南東側とミナレットのうち1塔は絶賛修復作業中だった。
アヤソフィアの入場に関しては、現地人のムスリムは地上階に無料で入場できるので、最初一緒に来てくれたMuhammet と並んで素知らぬふりをして現地人用ゲートを速足で通り抜けようとするが、、、、無事守衛に止められて門前払いへ。Muhammet が色々説得してくれようとしたけどダメだった・・・
ってなわけで、高額なチケットを買って超長蛇の列に並んで 外国人用の上層階から入場する。
上層階の柱より上壁面から天井にかけては、パステルイエローの漆喰とカラフルなアラベスク文様で装飾されていて、地上階に対して大きく吹き抜ける部分を取り囲むように列柱が建ち並ぶ。
この列柱、立派な大理石と そのトップに変形イオニア式とよばれる柱頭をもつ。
その柱頭の中央部分をよくみると、なにか紋章のようなものがあるのがわかる。これは ユスティアヌス帝を表わす “Ἰουστινιανοῦ” を象ったモノグラムで、帝王の権威・所有なんかを象徴している。すごく綺麗だけど、つまりこの柱群は現在の原型となるハギア・ソフィアが建設された6世紀当時のものということになる。
大理石の美しい柱と、その上につづくアーチが 幾重にも重なって上層階の回廊を構成している。
廊下から地上階を見下ろす。
礼拝スペース上部にはこの写真にあるように、直径7.5mもある巨大な円盤状のメダリオンが掲げられていて、これは1847-9年に設置されたもの。アッラーとムハンマドにつづき、正統カリフ4人とムハンマドの娘 ファーティマの2人の息子 フサインとハサン 計8枚が等間隔で並べられている。
地上階に入れなかったのは残念だけど、上層階からの眺めは圧巻で、これはこれでよかったなぁと思えた。
皇帝アレクシオス1世コムネノス(1081~1118)のモザイク画。
実は、8世紀におこった イコノクラスム; 聖像破壊運動の影響で それ以前の宗教画や像は全て聖堂内から取り除かれている。現在見る事の出来るモザイクはそれ以降、主に10世紀に装飾されたもので、やはりイスタンブール陥落後は漆喰によって覆われ保全されていた。
今度は北西側から反対側にあるミフラーブ方向を臨む。
地上階に輝くミフラーブ。
ハギア・ソフィアの装飾のなかでもひときわ興味深いセラフィム。メインドームの4隅に描かれている。
セラフィム と聞くとワンピースを思い浮かべる人も多そうだけど、オリジナルは旧約聖書に登場する熾天使のことで、階級がある天使の中で最高位に位置付けられている。6枚の羽をもっていて、北東側の天使の顔だけが修復で明らかになっている。
神の玉座の守護者であるセラフィムをドームに描くことで、この空間を神の臨在の場として象徴したとされる。
今でも、天使が見下ろす下でムスリムがサラートを行っているのは、まさに宗教的寛容の象徴でもあるイスタンブールの縮図のような光景だった。
ミフラーブ真正面より。沢山垂れ下がったシャンデリアがきれいだ・・・
「キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」 のモザイク画。1042-55年頃。
「聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇后エイレーネー」 のモザイク画。1122-1134年頃。
Henricus Dandolo; エンリコ・ダンドロ の墓標。
エンリコ・ダンドロはヴェネツィア総督で 第4回十字軍の際に 同じキリスト教徒でありながらコンスタンティノープルを崩壊させ1204年ラテン帝国を成立させた中心人物。この時、ハギア・ソフィアはカトリックの大聖堂として接収され、正教徒たちは追放された。
後の1261年に再び東ローマ帝国によって奪還された後は「汚辱の象徴」として人々から蔑まれ、墓は破壊ないし撤去されたという。
現在の墓標はダンドロの墓があった”とされる” 場所にプレートのみが残り遺体は存在しない。
元来東方正教会の最高権威であった聖堂内に、カトリックラテン帝国の しかもコンスタンティノープルを崩壊に追いやった張本人の墓標があるというのは、なんとも皮肉なことだ。
下部がほとんど失われてしまった「デイシス」のモザイク画。1260年頃。
回廊の大理石の柵の一部にある “Viking Script”.
9-10世紀頃、当時衛兵として雇われていた兵士によるものと考えられていて、HALVDAN という名前が刻まれている。
皇帝のプライベートエリアを隔てる Marble Door. 6世紀のもので、初期建設当時に近い。
大理石の扉表面の意匠。
ミフラーブ上部にある半球状のアプスのうち中央にある 「聖母子と大天使」のモザイク。時期は不明だけど 聖像破壊運動以前という説もある。普段はこのようにカーテンで隠されていて正面からは見ることが出来ないけど、上層階回廊の脇からぎりぎり写真を撮ることができた。ラッキーであればカーテンがかかっていないこともあるのかも?
見学を終えて1階部分に下りたところにある小さな回廊にも、
モザイク画が。中央に聖母子座像が、その右手にはハギア・ソフィアをつくったユスティアヌス帝がその手にハギア・ソフィアを、そして左手にはコンスタンティノープルを大都市へと落成させたコンスタンティヌス帝がその手にコンスタンティノープルを それぞれ抱いてマリアに向かって掲げている。
ハギア・ソフィアのすぐ側にある Ahmet Ⅲ Fountain.
1729年 Ahmet Ⅲ; アフメト3世の命でつくられた特徴的な噴水。
同じような木製天蓋をもつ特徴的なゲートなんかもある。
Basilica Cistern
ブルーモスクとハギア・ソフィアが向かい合う広場から通りを挟んですぐの場所に Basilica Cistern; バシリカ・シスタン がある。
ここは、Muhammet が現地人価格でチケットを2枚買ってくれた…
地下への階段を下りていくと そこには想像以上に壮大な地下巨大空間が広がっていた。
この巨大空間は貯水槽で、つくられたのはユスティアヌス1世の治世下 530年代。532年におきたニカの暴動で、都市の半分近くが消失・破壊されたことによって、その後の都市再建・インフラ再建の一環としてつくられたという。
ところどころ現代アートが置かれてる。
当時のコンスタンティノープルは人口が増えて生活用水の需要が高まっていたことから 生活用水としての性格が強かったと同時に、震災や戦時に備えたものでもあった。特にこの時期(6世紀半ば)は東側でササン朝ホスロー1世との拮抗状態がつづいていたため緊急用の備蓄水として重要だったのかもしれない。
柱頭はコリント式が多いけど、再利用建材が多くつかわれているため イオニア式やド―リス式も混在してる。
大量にある列柱のうち、いくつかには特徴的な装飾が施されていた。
特に有名なこの2つの柱脚には 通称”メドゥーサ” と呼ばれる顔面が彫刻されている。
どうしてここにメドゥーサがあって、なぜ逆さまなのか 詳しくはよくわかっていないみたいだけど、
一説には、キリスト教の東ローマ帝国にとって、 見たものを石に変えるというメドゥーサは異教であるギリシャ神話の魔物であり、それを逆さま、あるいは横倒しにして柱の基部にすることで、その象徴的な力を無効化すると共に魔除けとしての意義もこめられた という。
よくみると、いくつかの柱にも独特な彫刻や碑文が彫刻されている。
柱は全部で336本で高さは9m、広さは138m×25m で約80,000m³ .
一般公開されたのはつい最近の2022年。イスタンブール旧市街(Historic Peninsula)界隈に行くのであれば、是非訪れて後悔のないスポットだと思う。
Sultan Ahmet Mosque “Blue Mosque”
さて、また広場に戻ってきた。
イスタンブール市内でもっともよく目にするゴマ付パン Simit; スィミットの屋台がある。
ここでMuhammet が興味深いトルコの文化を教えてくれた。Askıda Simit とは「吊るされたスィミット」が直訳だけど、これはお金に余裕のある人が必要な分よりも余分にパンを買って余剰分を屋台のフックに吊るす、そしてそれをお金の無い人が受け取るという相互扶助システムなんだという。元々はオスマン帝国時代からあったAskıda Ekmek; アスクダ・エクメク (Ekmek はパン) という風習が元になってるらしい。
味気ないベーグルかと思いきや、スライスした間に沢山のチョコペーストを塗ってくれる。うまい。
広場の南西側に建つ Sultan Ahmet Mosque 通称ブルー・モスクへ。
14代スルタン Ahmet Ⅰ; アフメト1世の治世下 1609-17年に建設された。
中庭へつづく入口は北側にある。
モスク前面に広がる中庭と、
それを取り囲む回廊と列柱。
典型的なオスマン様式のモスクで、中庭の四隅含めて6本のミナレットをもつ。
うち、北側中央のミナレットは修復中だった。
モスク内部。
メインドームは地上43mになり、直径は23.5m.
その周りを4つの半円ドームが取り囲み、その4つのセミドームそれぞれに更に3つのエクセドラ(半円形の窪み)がつづいて天井を構成している。
美しいステンドグラスは後世につけられたもので、建設当時使われたというヴェネツィア産の色ガラスは ほとんどが失われてしまったらしい。
半円形の窪みに設けられた沢山の窓から差す自然光と、シャンデリアの暖色で照らされた内部の装飾。
ブルーモスクのシャンデリアにはダチョウの卵が沢山吊り下げられている。これは蜘蛛除けの効果や光の反射効果、あるいは生命の象徴である卵=神聖性の象徴といった意味があるらしい。現代ではほとんどのモスクで撤去される傾向があるけど、イスタンブールのいくつかのモスクでは今でもこうやってみることができる。
“ブルー”モスクの名の由来となった、モスク内に21,000枚以上あるというイズニック製タイル。
建設後期になると、このモスクの建材用として以外の生産を禁止するほど イズニック地方のタイル生産を集中させたらしい。
正直、そこまで ”ブルー!!” と感じるほど青青しい空間ではないと感じたけれど、確かに随所に美しい青いタイルが輝いていて、長年名前だけ知っていた”ブルー・モスク” の、その名前の由来を感じることができてよかった。
Topkapı Palace
ハギア・ソフィア周辺の路地を適当に歩き回る。
イスタンブール中心地となると、お土産も高そう。
ハギア・ソフィアの北東側に広大に広がるTopkapı Palace; トプカプ宮殿の敷地を囲むような城壁から、中へ入って行く。
概ね4つに区切られるコートヤードの内、西側から入って広大な第1コートヤードを北側に歩いていくと、2つの尖塔をもつ第1-第2 コートヤードを隔てる Bâb-üs Selâm; 栄光の門 が見える。
栄光の門を抜けると第2コートヤード。ここからがチケットを買って入るトプカプ宮殿の領域内という扱いのようだ。
トプカプ宮殿は1459年にMehmet Ⅱ; メフメト2世の命で建設されて、1856年まで帝国の宮殿としてつかわれた。
第2コートヤードの西側に位置する Adalet Kulesi; 正義の塔
Ahmet Ⅲ Fountain などに似た木製天蓋。
淡いターコイズブルーに黄金の繊細な格子が映える独特の入口。
内装のデコレーション。
いままで本当に沢山のタイル装飾をみてきたけど、それでも見飽きないタイルアート。
そろそろ各国のタイル装飾だけで写真集だせそうな気がするんだが、そんなに甘くないか。
内部は宝物館になっていて、オスマン帝国時代の時計が沢山展示されている。
美しき懐中時計たち・・・
つづいて武器・銃器類。
こんなんもったいなくて使えんだろ、と思ってしまう美しい銃身をもったフリントロックたち。
大型ライフルの撃鉄部。どれも意匠が凝っていてずっと見ていたい。
日本から贈呈された日本刀もあった。
各国から寄贈された他の刀剣類と比較しても全く引けを取らない美しさ。
でもたぶんこの刀は外交輸出用につくられた装飾刀の可能性がたかい。本当の実戦用に、即ち人を殺め断ち斬るために鍛えられた刀の禍々しい美しさはまた別物である。
第2-第3のコートヤードを隔てる Bâbüssaâde; 至福の門。
門を抜けて、第3コートヤードに出ると、
東側にはオスマン帝国時代の衣装の展示がある。
スレイマン1世、メフメト2世、
アブドゥルメジド1世、マフムト2世 など、歴代スルタン達が纏った衣装。
他にも沢山の当時の Kaftan; カフタンが展示されていた。
つづいて、宝飾品。
“Spoonmaker’s Diamond”
17世紀、スルタン メフメト4世の次代に宮殿宝物庫に収蔵されたとされる86カラットのダイヤモンド。
ペアシェイプ・ブリリアントカットの中では世界で4番目の大きさらしく、トプカプ宮殿宝物殿にあるあらゆる単一収蔵物の中で最も価値のあるものといわれている。価値は正確に想定できないけど、もし市場にでれば数億ドル(600億円前後)らしい。
実に色んな種類の “Treasure” があって面白い。
第4コートヤードの奥からは、ボスポラス海峡を挟んでアジア側のテレビ棟 Çamlıca Tower や、金角湾に架かる Galata Bridge が見わたせる。
第4コートヤード 一番北東側にある Mecidiye Pavilion.
1858年 Abdülmecid I; アブドゥルメジド1世の命でつくられた宮殿内最後に建設された建物。
家具は全てフランスから運び込まれたらしい。
そのままコートヤードの西側に行くと、Bağdat Köşkü; バグダッド・パビリオンと、その前に広がる庭園がある。
ムラト4世のバグダッド遠征を記念して建設が開始され、1639年頃に完成したとされる。
八角形の水平団形状な棟と、相似形の天蓋という独特なつくりに、
これまた深い青が美しいタイルで装飾された外壁。オスマン古典美術の最高峰ともいわれるこのタイルアート、
現地の看板には”イズニック・タイル”とあるけど、Wiki先生曰く 当時の文書が失われてどこで製造されたタイルか不明らしい。
パビリオン内部。
長きに渡るオスマン帝国の治世の中でも、とりわけ17世紀前半頃がタイル装飾の質や装飾性においてそのピークを迎えたとされる。
バグダッド・パビリオンの内装もまた、そんな至高の域に達した当時の技術と芸術性が凝縮された空間なのだ。
よく、歴史建造物の履歴を調べてると
「後世になって修復されたが、建設当時オリジナルよりも質が劣る」
というようなパターンは非常に多い。
どうしてあらゆる面で技術が進歩したはずの現代において、数百年前の職人の作品を越えることができないのか。
それは、なにもかもコストや効率性、再現性と画一性が大事にされる現在とは 完全にものづくりに対する精神性が違うことを証明している。
製法が口伝などにより失われた、あるいは当時使う事のできた原材料が現在では入手できない といった理由もさることながら、
当時の職人は 国の威信や宗教的な信仰、ひとりの職人として あるいは家の名誉と誇りをかけて、文字通り命を注いで作品をつくっていた。
「なんのためにつくるのか」という動機が、現在の産業構造にあるそれとは根本的に違う。
それ故に、機械的な整然性は、不完全性の中にある人間的な深みを越えることができないのだ。これはオスマン帝国のタイルアートだけではなくて、全ての文化圏における伝統技術に共通することじゃないだろうか。
AIがいよいよ本格的に社会の中に浸透しはじめるこの時世において、こういう不完全性の中に至高や無比の価値を見出すメンタリティが、見直されるべきかもしれない。
そんな事を考えつつ、もう閉館が近づいてきてる。まじで規模でかすぎ、こんなにでかいなら丸1日あてがうべきだった・・・
スレイマン1世の治世下で建てられた Sünnet Odası; 割礼室。
その名の通り、王子の割礼式に用いられたりしたらしい。
入口の脇にある大きなタイル。
内装も美しいタイルで覆われている。
現在の形に完成したのは、後の Sultan Ibrahim; イブラヒム帝の治世下 1640年頃。
でも使用されているタイルは建物の完成する100年以上前にイズニックで製造された、スレイマン1世時代のものがつかわれていて、おそらく1529年頃のものと考えられている。先のバグダッド・パビリオンのタイルよりも1世紀ほど古いもので、イズニック陶器の中ではこちらの方が”黄金期”とされる。
Saadet Çeşmesi; 幸福の泉。
スルタンが亡くなった際にその遺体を洗う場所だったという噴水。
ムラト4世のRevan; レヴァン=現在のエレバン 征服を記念して、1635-36年につくられた Revan Köşkü; レヴァン邸。
壁面は同様に青いタイルで、天井は黄・緑・赤が映えるアンカンサスの紋様で装飾されている。
レヴァン邸の中に安置された黄金に輝く玉座は Throne for the Eve of Bairam と呼ばれる アフメト1世の玉座。
バイラムの前夜、とはつまりイスラムの祝祭 イードの前夜のこと。宮殿内で行われる特別な儀式の際に、スルタンが座った椅子らしい。
くるみ材に、これでもかというほどびっしりと、真珠・金・トルコ石などで象嵌装飾がされている。
もう本当に閉館が差し迫って来た、という時 駆け込みで入れた Kutsal Emanetler Odası; 聖遺物館
ここにはイスラム教における聖遺物、つまりProphet Muhammad にまつわる品が収蔵されている。
キリスト教でいうところの、イエスを磔にした十字架やその手や足を貫いた釘、脇腹を突いたロンギヌスの槍や遺骸を包んだ布なんかが代表的なものになる。
モーセの杖。この杖が振るわれ、紅海が割れたのか・・・
勿論真偽のほどは・・・
預言者ムハンマドの足跡とひげ。
預言者ムハンマドの歯(が入っている箱)と、ムハンマドの娘ファティマのウェディングドレス。
まだまだ展示物があったけど、これにて時間切れ・・・ 閉館なので残ってた人みんな出館を促されてしまった。
ってなわけで、トプカプ宮殿は 単一の宮殿をみるというより、完全に複数建造物のコンプレックスで、しかもそれぞれの建物に大量の収蔵品が展示されているので、博物館をいくつもまわるくらいのエネルギーと時間が必要というのが、見終わってから分かった。
完全に見て回ることはできなかったけど、貴重な収蔵品の写真を撮りまくれたし、オスマン美術のひとつの到達点といわれるイズニックタイルの黄金期にあたる装飾を堪能できた。
入って来たのとは違う門から、南側へ抜けていく。
第1コートヤード最南端にある Bab-ı Hümayun; 君主の門から外へ。こっちがトプカプ宮殿の正門にあたるらしい。
だんだんと暗くなっていく街のなか、人々の活気は収まらず、
ネオンや街灯が照らして違う表情になっていくイスタンブール旧市街を去り 再びMuhammet宅に戻るのであった。
おまけ
とある日、スーパーで買ったカツオをつかって、Muhammet がつくってくれた、カツオとレモンのオーブン焼き。
久しぶりに魚を食べられた。
つづく