どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。
ブルサの市内徘徊録 バザール界隈編・スルタンの霊廟編 につづきその3です。
予想外に満載なブルサ編になってしまいましたが、つづいて まだまだあるスルタン達の霊廟や彼らが築いたコンプレックス群をみてまわります。
Atatürk Museum
ブルサのアタテュルク博物館にやってきた。
19世紀後半に建てられた館は、建国の父、ケマル・アタテュルクがブルサを訪問した際に滞在した場所で、修復の後 当時の姿で公開されている。
応接間とダイニング。
客室に寝室。
ゴレスタン宮殿のような非現実的な華美さはなく、現実的で落ち着いた雰囲気。
こういうストーブが将来欲しい。
綺麗に曲げられた手すりが美しい楕円スパイラルの階段。
Irgandı Bridge
ブルサの街のほぼ中央部、街のシンボル的な存在でもあるIrgandı; イルガンドゥ橋。
橋の上に かわいいパステルイエロー壁面の屋根付き店舗が連なってるのが特徴だ。
ムラト2世の治世中、1442年に建設された後 1855年の地震・1922年トルコ独立戦争時ギリシャ軍による爆撃によってそれぞれ損壊するも、その都度再建されて、2004年の修復後現在の姿になっている。
橋を渡っていくと、両脇にいろんな品がみられる。
こういう屋根付き店舗が備わった橋というのは、実は世界中にそんなにたくさんあるものじゃないらしくて、イタリアのヴェッキオ橋などを筆頭に10~15くらいしかない。その中でも更に「現在でも市場機能を維持している」ものとなると、意外にもかなり希少なんだという。
看板の雰囲気とか かけ方とか、かなり西欧的だ。
手作りのアクセサリーや、
食器、
手編みのバッグ類など、地元のアルチザン系のお店が多いようだ。
🐱います のプレートいいな。プレートはトラだけど、いたのはクロだった。
一瞬レニヤーノかと思った! はぁ、おれのレニヤーノは無事だろうか・・・
Yeşil Külliye
イルガンドゥの橋を挟んで街の東側、Yeşil Külliye; 緑のコンプレックス にやってきた。
ここは1420年前後、5代スルタン メフメト1世によってつくられた建造物群が集まっている場所だ。
まずは Yeşil Cami; 緑のモスク。
ミナレット上部を覆うタイルを見ると、わずかに緑色を帯びたような色をしていて これがモスクの名前の由縁らしい。
2つあるミナレットの一方は、1869年に増築されたもの。
美しく装飾された外壁の窓と、緑に輝くミナレット尖塔。
正面イワーンの、ひときわ複雑かつ精巧に彫られたムカルナスと碑文。
コリント式の柱頭で構成されたポルチコ。
モスク内、シャディルヴァンの奥に
広がった孔雀の羽のようなミフラーブがライトを浴びて 薄暗い空間から浮き上がってくる。
礼拝室とミフラーブがあるメインの2つのドーム以外に、このモスクには4つのサブコンパートメントがあり、
それぞれに見事な装飾が施されているので そこも必見。
特に空間下部の壁面を彩るハニカムのタイルが美しい深緑で、これが “グリーン・モスク”の由縁なのでは?と思ってしまう。
モスクの南側へと通路を抜けていくと、Yeşil Türbe; 緑の霊廟 がある。
入口のイワーンと、外壁の窓。
緑というよりは、青く輝いている。
霊廟内部と内壁の装飾。全部で9つの石棺が安置されていて、
中央のこの美しく装飾された石棺がメフメト1世のものだ。
プシーデで覆われるのではなく、石棺そのものが精緻なデザインのタイルで構成されている。
霊廟内ミフラーブ。
妻や側室、息子と共に眠る。
一説によると、メフメト1世は ティムール帝国の建国者ティムール帝の霊廟 サマルカンドのGur i Amir; グリ・アミール への挑戦という一面をもっていたらしくて、たしかに壁面下部のタイルの様子なんかは 中央アジアで見たそれとよく似ている。超絶余計なお世話だけど、勝手に勝利判定をするのであれば 霊廟自体の絢爛さでは圧倒的に Gur i Amir に軍配があがる。
でも、石棺だけで比較するのであれば、メフメト1世の勝ちでしょう。
Gur i Amir に関しては、ウズベキスタンのサマルカンド編を是非。
Yeşil Külliye 周辺の路地には、オスマン帝国時代の建築様式を保った古い建物がいくつも建っていた。
更に街の東側へと、路地を進んでいく。
Emir Sultan Cami
中心からは、割と東のはずれにやってきた。ここには Emir Sultan Mosque; エミール・スルタン・モスク がある。
元々15世紀にあったモスクが18世紀の地震で倒壊し再建されるも、再び1855年の地震で損壊し 最終的には現在のようなオスマンバロック様式で再建された。エミール・スルタンという名前だけど、彼はオスマン帝国のスルタンではなく、ブルサ出身のスーフィーで、14世紀の末にアナトリアへと移住して 4代スルタン バヤズィド1世の娘と結婚したのだ。
モスク内へと入っていく。
中は回廊で囲まれた中庭をもっていて、南側にメインドームと2本のミナレットがある。
回廊の装飾。
回廊部分はいくつもの部屋に通じていて、その一つはEmir Sultan の霊廟となっている。彼は1429年に亡くなったとされていて、石棺は見事なプシーデと、柵で守られていた。
シャディルヴァンで清めを行う人々。
モスク入口は、2階部分に木造のバルコニーが突き出しているような構造で独特だ。
モスク内。ミフラーブはグレー基調の大理石に金ラインの装飾で落ち着いた印象。
中庭の賑やかな雰囲気とのギャップが心地よい。
Yildirim (Bayezid I) Külliye
そしてそこから更に少しだけ北に移動すると、Yildirim Külliye; イルドゥリム・コンプレックスがある。
ここは14世紀の末に、4代スルタン バヤズィド1世と その息子のひとり Süleyman Çelebi; スレイマン・チェレビ によってつくられた建造物群が集まる場所。
Yildirim Madrasah; イルドゥリム・マドラサ
マドラサとして機能しなくなった後は閉鎖されて荒廃し、修復後は診療所として使われていた。門は閉ざされていて、中には入れなかった。
Yıldırım Bayezid Türbesi; バヤズィド1世霊廟
1406年、息子のスレイマン・チェレビによって建てられたもので、入口にポルチコを伴う最初のオスマン霊廟。
入口と外壁の一部。
入口上部の碑文と、ポルチコ天井の意匠。
霊廟中央に鎮座する バヤズィド1世のサルコファーグ。やっぱり、豪華なプシーデに包まれ、ターバンの飾りが置かれている。
両脇には息子のひとり Isa; イサと 妻の石棺が共に眠り、他2つは誰のものか不明。
こうして沢山の霊廟を見てくると、世界遺産レベルの霊廟でも詳細不明で被埋葬者が定かではない石棺のなんと多い事か。
中世オスマン帝国の資料がいかに不安定なものかがなんとなく分かるような気がする。
霊廟内ミフラーブの装飾と、
ドーム下面中央の複雑な幾何学(?) デザイン。
マドラサよりも一段丘の上にある Yıldırım Cami; イルドゥリム・モスク
巨大すぎて標準レンズの画角には全く収まらない。
正面入り口。
ポルチコの回廊部分を左右に見渡す。巨大さが伝わるだろうか。
モスク内部は、圧倒的な切り石の迫力に満ちた独特の雰囲気。僻地にあるアルメニア教会内部のような、なんというか 周りを取り囲む石が生きていて、それが体に向かって迫ってくるような気分。さすが初期オスマン建築の傑作といわれるモスクだ、とかわかったような気になる。バヤズィド1世によって1390-95年に建てられて、1855年の地震での倒壊後に修復されている。
ミフラーブはどちらかというと派手寄りな印象で、カリグラフィックに装飾された碑文が中央ニッチを囲む。
初期オスマン建築で有名な”Bursa Arch; ブルサ・アーチ”という建築構造を有した最初の建造物として有名で、先のポルチコや、この祈祷室とミフラーブがあるメインドーム下の空間を隔てる独特のアーチがそれらしい。とくにこのアーチの両脇には精緻なムカルナスやアラベスク文様の装飾が施されていて、視覚的な効果も大きい。
このブルサ・アーチは、オスマン帝国が旧来のセルジューク朝的な建築から、独自のアイデンティティを築いていく過渡期を象徴するもので、16世紀にかけて オスマン建築の最高傑作とよばれるようなものが誕生していくきっかけになったのではないかともいわれている。そうやって見てみると、このただのアーチも なんだか特別なものに見えて来る。そうやって細かいことに注目することで、今まで数百のモスクを見て来た中でも 飽きずに関心をもって見続けることができる。
祈祷室の東西に位置するサブコンパートメント。
祈祷室天井の意匠。
ってなわけで、ブルサの街を全3記事に分けて紹介してきたけど、これでもまだまだ有名どころを周っただけに過ぎない。
街のいたるところにオスマン帝国時代の建築物が散在していて、その懐はめちゃめちゃに深い。
訪れる前はここまでボリューミーな街と思ってなかったけど、なるほど 帝国初期の首都であり、建国の祖が眠るこの街は、
イスタンブールとはまた違った意味で深い歴史に根差した独特の文化が脈脈と生きている。
日本だと、平城京として古代の首都で 東大寺や興福寺を代表する古の建築物が今も残り、古代皇族や豪族の古墳が点在する奈良がまさしくブルサに該当するんじゃないかな とか考えてみたんだけど、どうでしょう?
つづく