【Republic of Turkey episode 33】Bursa の街 ~徘徊その2 スルタン達の霊廟編

どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。

ブルサの街にある様々なランドマークを、更に訪ねていきます。

Tomb of Orhan Gazi / Osman Gazi

さて、今日はオスマン帝国建国の父である 最初期のスルタンの霊廟にやってきた。

霊廟の前では、円形のトレーが仕切られた まるでマルチテイストの鍋のように見えるトルコ伝統のスイーツ Macun; マジュンが売られている。

Tomb of Orhan Gazi; オルハン霊廟
オルハン・ガジはオスマン帝国創設者 オスマン1世の息子で、1326年にブルサを制圧した。

廟は直近で2009年に修復されていて、オスマン建築らしい木造の意匠が美しく修復されている。
廟内には20の棺があって、オルハン・ガジの妻 息子 娘も眠っている。中には誰のものか不明な棺もあるらしい。

中央に鎮座するひときわ立派なこちらが、オルハン・ガジの眠る棺。

そしてこちらが、Gümüşlü Kubbe; 銀のドーム とよばれるオスマン帝国建国者オスマン1世の廟。
元々は11世紀までSt.Elias ; 聖エリアス修道院があった場所に建てられている。

入口には一瞬蝋人形かと思うように表情をピクリとも動かさない護衛が2人立っている。

さすが帝国の父が眠る廟ということもあって、特別な雰囲気に包まれている。

入口の意匠や、

扉の脇に飾られている紋章。

全部で17ある石棺の内、中央のこれ以上ない程に立派なものが オスマン1世の棺だ。
棺そのものは Sarcofag; サルコファーグ や、Lahid; ラーヒド と言われ、その棺を蓋うこの美しい刺繍が施された布のことを Puşide; プシーデという。おそらく、トルコ国内に無数にあるサルコファーグやプシーデの中でも 最も豪奢で威厳に満ちたものに違いない。
トゥルベ内に入ったとき、たまたまなのか イマームのようなじっちゃんがコーランを暗唱している最中だった。世界的な観光地とはいえ、非ムスリムがそういうタイミングに居合わせても 特に誰も何も気にしていないのには ブルサの街の寛容さを感じる。

そしてトゥルベを出ると、ちょうど護衛の交代のタイミングだったようで 厳かな雰囲気の中、厳めしい表情をした護衛達が ピッタリ息の揃った動きで交代していく。

オスマン・ガジ、オルハン・ガジ 両霊廟のある敷地内には Tophane Clock Tower という6階構造の時計塔が建っている。
現在の時計塔にある時計は電波時計で、塔自体は消防用の監視塔として利用されてるらしい。Abdulhamid Ⅱ; アブドゥルハミド2世の即位29周年を記念して1904-5年につくられた。29周年ってなんやねん。

時計塔の建つ丘の上から見たブルサの街。

Muradiye Complex

次にやってきたのは、Murad.Ⅱ complex.
6代スルタン ムラト2世にまつわるさまざまな遺構が ブルサのやや西部に集中している。

Murad.Ⅱ Madrasah

Murad.Ⅱ Madrasah.
1425-26にかけてムラト2世によってつくられたマドラサ。メインイワーンをくぐると、内部は17m×17mほどの大きな中庭と、

それを取り囲むように沢山の学生室で構成された回廊に入ることができる。

それぞれの学生室は 現在博物館になっていて、

当時学生たちの学びを支えた古いコーランや文具類が展示されている。

マドラサの一番奥の空間、ターコイズブルーのタイルと白壁のコントラストが美しい。
マドラサは、1855年のブルサ大地震で被害を受け 1951年に大規模な修復を受けたのち、近年では2012~19年にかけても大きな修復プロジェクトを完了している。

Murad.Ⅱ Cami

Murad.Ⅱ Cami.
1426年の建築。2本あるミナレットのうち一方は1904年に再建されたもの。

正面のポルチコ。

列柱の美しい回廊と、

天井の意匠。

入口の碑文と複雑な幾何学文様のタイル。

モスク内部は人もいなくて至極落ち着いた雰囲気。

装飾は独特で、細かく彩色された隅のムカルナスや、ステンドグラスが少し教会のような雰囲気を醸している。

ミフラーブの装飾も、金など多用した豪奢な雰囲気ではなく、植物のデザインを基本にした意匠が全体に施されていて また独特。

さて、Murad.Ⅱ Madrasah と Murad.Ⅱ Cami の間を入って行くと、そこには ムラト2世のものを含めて全部で12の霊廟と、墓地が集まった空間へとつづいている。

Mausoleum of Şehzade Ahmed

Şehzade Ahmed; シャフザデ・アフメト 廟

廟内部。シャフザデ・アフメトは8代スルタン バヤズィド2世の長男であり、次期スルタンを継承した弟のセリム1世によって処刑された。

1513年の築造で、ところどころ木造部位が露出している。

Mausoleum of Murad.Ⅱ

1481年築造の Murad.Ⅱ廟
コンプレックス内にあるトゥルベの中では最大。

入口にある庇部分の見事な木工と装飾。

スルタン ムラト2世の石棺は、プシーデなどもなく思ったより簡素な印象だった。

どことなく古典ヨーロッパ的なミフラーブの装飾や

石棺を取り囲む列柱にあしらわれたコリント式の柱頭は、ビザンツの様式を積極的に取り入れていたオスマン帝国の姿勢があらわれている。

廟の奥には、ムラト2世の息子たちの石棺もおさめられていた。

Mausoleum of Şehzade Mustafa(son of Mehmed.Ⅱ)

Şehzade Mustafa; シャフザデ・ムスタファ廟

シャフザデ・ムスタファは、コンスタンティノープルを陥落させ”征服王”として名を馳せた Mehmed Ⅱ; メフメト2世の息子で、1474年に亡くなってこのトゥルベに埋葬された。

鮮やかな青が基調の基部から、複雑なデザインが極彩色で装飾された白壁。

内部の雰囲気はひときわに鮮やかだった。

Mausoleum of Şehzade Mustafa(son of Suleiman Ⅰ)

同じく Şehzade Mustafa; シャフザデ・ムスタファ廟 だけど、同名というだけで こちらは10代スルタン Suleiman Ⅰ; スレイマン1世の息子であるムスタファのトゥルベ。

立派なプシーデに包まれた棺。ムスタファは1553年に亡くなり、1573年に建てられたこの廟に移された。

青を基調とした下部から、複雑なアンカンサス紋様のある白壁への移行は先のムスタファ廟と似ているけど、こっちの方がやや落ち着いた印象。

Mausoleum of Şirin Hatun

Şirin Hatun; シリン・ハトゥン廟

シリン・ハトゥンは、8代スルタン バヤズィド2世の側室で、中央の石棺が彼女のもの。娘や息子嫁と共に眠る。

Mausoleun of Gülruh Hatun

Gülruh Hatun; ギュルル・ハトゥン廟。

同じくバヤズィド2世の側室。1527年の築造。

Mausoleum of Gülbahar Hatun

Gülbahar Hatun; ギュルバハル・ハトゥン廟

と、一般的には言われているけれど 正確には誰が埋葬されたのか不明らしい。ギュルバハル・ハトゥンは、メフメト2世の妻であり バヤズィド2世の母である。

Mausoleum of Şehzade Mahmud(son of Bayezid Ⅱ)

Şehzade Mahmud; シャフザデ・マフムド廟。
Şehzade Mahmud というと、一般的にはメフメト3世の息子を指すようだけど、このシャフザデ・マフムドは1507年に亡くなったバヤズィド2世の息子 と、現地看板にある。が、調べてもバヤズィド2世にシャフザデ・マフムドという子息はいない。

鮮やかなターコイズブルーの下部と、息子たちと共に並ぶ石棺。

極彩色&複雑なデザイン、

繊細なガラスワークの窓

天井の意匠など。無名の王子の廟にしてはかなりしっかりした作りだなぁと思うけど、メフメト3世の息子の方のシャフザデ・マフムドはイスタンブールにその石棺があるから、たぶん現地看板の説明が正しいんだろうな。

Mausoleum of Mukrime Hatun

Mukrime Hatun; ムクリメ・ハトゥンはバヤズィド2世の息子Şehzade Şehinshah; シャフザデ・シェヒンシャー の妻だった女性で 1517年に亡くなったと考えられている。

プシーデで覆われた石棺がムクリメ・ハトゥンのものと思われる。

Mausoleum of Gülşah Hatun

Gülşah Hatun; ギュルシャ・ハトゥンはメフメト2世の側室。

1487年に亡くなる前、存命中に建設されたという。

Gravery area

霊廟の南側には、15~19世紀と長きに渡って利用されてきた墓地が広がっている。
特徴的なのは、sarıklı mezar taşı; サルクル・メザル・タシュとよばれる墓石の頭部装飾で、

Crest 型とよばれるものは女性に、Twisting Turban型 は高位の人物に好んで用いられたことから このサルクル・メザル・タシュの形や装飾の形式で被埋葬者の社会的なステータスがわかるらしい。

Mausoleum of Saraylılar

墓地を抜けて更に東側へと抜けていくと、Saraylılar; サライルラール廟がある。

ふたつの石棺はそれぞれ Belkis Hanım と Akile Hanım のものとされていて、ふたりとも 10代スルタン スレイマン1世の側室であった Mahidevran; マヒデヴラン の姉だ。
なぜか被埋葬者の名前ではなく、サライラールという言葉が使われているのは、サライラールという言葉が妃や側室、女官といったオスマン帝国の宮廷に仕えていた人物をひろく指す意味で この廟ではそこが強調されているのかもしれない。

Mausoleum of Hüma Hatun

最後は、Hüma Hatun; フマ・ハトゥン廟。

フマ・ハトゥンは ムラト2世の側室であり、メフメト2世の母であった女性。
”征服王”の母の棺は 立派なプシーデで包まれて、

質素ではあるものの、美しい装飾の施されたトゥルベに安置されているのであった。

てなわけで、ボリューム満点すぎる Muradiye Complex だった・・・!

Complex のすぐ近くには、

1425年、ムラト2世によってつくられたトルコ浴場や、

メフメト2世の治世に会計を務めた Suleiman Bey; スレイマン・ベイという人物の霊廟など、まだまだたくさんのオスマン期遺構がある。

Murat. ⅠMosque 周辺

Kervansaray Thermal Hammam

街の更に西側へとやってきた。

14世紀後半から15世紀にかけて、バヤズィド1世の治世につくられた600年以上の歴史をもつ最古のトルコ浴場のひとつらしい。

ブルサの歴史的な石畳の路地を走るのもなかなか面白い。

Murat.ⅠComplex

ハマムのすぐ近くには、ムラト1世によって1363-85年にかけてつくられた Hüdavendigar; ヒューダヴェンディガルモスクがある。

きれいな列柱2階構造の正面ポルチコと、やっぱりコリント式の柱頭。
2階はマドラサとして、1階がモスクとして機能するという ユニークな構造をしている。

モスク内部。ここもシャディルヴァンがモスク内にあった。

ミフラーブ&ミンバル。ミフラーブはライトアップされて、黄金のカリグラフィとムカルナスが 深い地色の背景から浮かび上がっているようで美しかった。今まで一体どれだけのミフラーブをみてきたか もはや数えきれないほどだけど それでもブルサのモスクでは新鮮な感覚にさせてくれる。

こういう誰もいないモスクでは、中でゆっくり休める。現地のおっさんと一緒になって寝てしまうこともある。
神社も教会も寺もモスクも 疲れた旅人に優しい場所であって欲しいね。し、シナゴークは……

Mausoleum of Murat.Ⅰ

モスクのすぐ側には ムラト1世の霊廟がある。

重厚な柱に囲まれ、立派あなプシーデで包まれたムラト1世の石棺。

ムラト1世は最前線で戦うスルタンだったようで、バルカンへの版図拡大において 1389年コソボの戦いで戦死した。

さて、まだまだつづくブルサ徘徊。
こうして記事にすると、いかにブルサがボリューミーな街だったかよくよく思いだされる。
長くなり過ぎるので、さらに後編へ・・・

つづく

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