どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。
赤茶壁の歴史建造物が連なるマルディンの街を後にして、北に70km程度進んだ街 Diyarbakir; ディヤルバクルへと進みます。
ここまでのルート
Diyalbakir 入城
チェックポイントを通りつつ、北上。
早くも40℃を越える中、しばらく走ると Ongözlü Bridge が見えて来た。
10世紀の終わりから11世紀の終わりまで、わずかな期間ディヤルバクルを中心に栄えたイスラム系スンニ派王朝のマルワーン朝(クルド系ともアラブ系とも諸説あり)によって1065~67年頃につくられた橋だ。
Ongözlü は、ten eyed と直訳されて、その名の通り10のアーチから構成されている。架かるのはティグリス川で、トルコではTigris ではなく Dicle; ディジュレ と呼ぶみたい。ディヤルバクル産の黒い玄武岩でつくられてるけど、ティグリス川の氾濫で何度も崩壊し、その度に修復されてきたらしい。
橋の周りにはクルド式の喫茶店みたいなのが沢山ある。
ティグリス下流方向。
上流方向、北側にはディヤルバクルの街を取り巻く城壁が見える。
ディヤルバクルの都市南東に広がる Hevsel; ヘヴセル庭園。古来からディヤルバクルへの食糧供給元として重要な役割を担ってきた肥沃な耕作地帯で、城壁と共に世界遺産となっている。
城壁を越えて、一度市内に入ってから日陰にテネレを停めて、歩きで探索開始。
Diyalbakir 徘徊
Ulfa Gate
市内の西に位置する Ulfa Gate; ウルファ門
ウルファ門の脇にある鉄の扉。上部のレリーフは、牛の角の上に鷲が鎮座するデザインになっている。
この意匠が施されたのは1183年ということで、ディヤルバクルがセルジューク朝の統治下に入った後なのかな。
ウルファ門から市内へとつづく道をあるいていく。
市内中心はどこも石畳。デカい農業用トラクターが狭い路地に突っ込んでいく。
修復中の Melik Ahmet Mowque.
東西を貫くメインストリートの両脇には 沢山の店が軒を連ねる。
路地へ入って行くと、雰囲気はぐっと混みいたかんじになっていく。
Lala Bey Mosque.
入口のレリーフと、ファサードのアーチ。
路地の中に突如あらわれるシリア正教会。残念ながらこの日は閉まっていたから、後日再訪することにしよう。
入口にはライオンのようなレリーフがあった。
シリア正教会 東側の門。
丈夫のレリーフは、一番上の行はアラビア語のように見えるけど、下のほうは??
その向かいにある Diyalbakir Church.
黒い煉瓦の壁に挟まれた路地。
暑いけど、歩いていてワクワクする雰囲気。
素敵な扉たち。
路地を歩いていると、扉の中に何やら面白い光景が見えたので中を見学させてもらうと、
煙草の工場だった。手作業でタバコの葉を茎から剥がして、
この機会で粉末化したのを紙に巻いていく。
吸ってみなよと言われたので、スモーカーじゃないんだけどせっかくだから吸ってみるが、うん よくわからん。
煙草工場の皆さんに礼を言って、またメイン通りに戻って行く。
トルコのこんなような商店の光景もすっかり見慣れてはしまったけど、
店ごとにディスプレイの仕方もいろいろで、やっぱり面白い。
Ulu Cami
さて、市内を南北にゆくGazi; ガジ通りを少し北に進んで、Ulu Cami; Grand Mosque にやってきた。
いわゆる正統カリフ時代のアラブ帝国 ラシドゥン・カリフによるレバント征服の一環として、ディヤルバクルもアラブ人によってビザンツ帝国の手から陥落。その時、この街にあった The Heraclian Church of St. Thomas; 聖トマス・ヘラクリアヌス教会の跡地に建てられたのがはじまりだという。勿論、現存するモスクはそれよりも後年の1091年 大セルジューク朝の3代スルタン Malik Shah Ⅰ; マリク・シャー1世によって再建されたのが原型となっている。
入口にはデコレートされたアラビア語と、牛を襲う獅子のレリーフ。夏の到来を象徴してるんだとか。
モスクの構造は、シリアのダマスカスで訪れたウマイヤド・モスクに酷似していて 実際それを模倣してつくられたといわれている。
東西南北が列柱回廊で囲まれた中庭にモスクのファサードが開いている。
おそらく、元々あったであろう教会の柱が再利用されているんだろうか、明らかにコリント式のようなアンカンサス装飾が特徴的な柱頭をもった柱が並ぶ。このへんはシリアのウマイヤド・モスクも同じだったなぁ。もしこの柱が、初期のモスク建造前にあった聖トマス教会のものなのであれば、1500年以上前の柱ということか、、、
北側の回廊から、城壁をくぐると 一部は図書館になっていた。
北側を構成するアーチと壁面。
イスラムの高名な学者 Cezeri; シェゼリーが作ったとされる日時計。機械式時計が発明される以前は、影の位置によってお祈りの時間を知る事ができたのだ。
Wudu; 小浄の水場。
とにかく精緻で見とれてしまう列柱の装飾。
南側に位置するモスクのファサードと、その奥に見えるミナレット。
ダマスカスのウマイヤド・モスクには3本のミナレットがあったけど、その辺は模倣されなかったのかな。
礼拝堂内。外壁に比してこちらのアーチは幾分か簡素にみえる。
メインのミフラーブと、
ドーム状にならず、フラットな天井。
そして寝てるおっさん達。
Hasan Paşa Hanı
グランドモスクと通りを挟んで向かいに、Hasan Paşa Hanı がある。
これはいわゆるキャラバンサライで、1572~75年にかかけて 当時オスマン帝国の統治下でディヤルバクル総督であった Hasa Pasha; ハッサン・パシャによってつくられた。
西側に開く入口とクーフィ―体の碑文。
中にはいると、典型的なキャラバンサライのつくりといった感じで、2階構造の回廊に囲まれた空間の1階部分は喫茶や土産屋となっている。
白と黒の石で層状を成す事で、視覚的に高く感じる効果があるらしい。スペインのメスキータで特徴的な2色層状のアーチは 実に色々なモスクやマドラサ、キャラバンサライなんかで見ることが出来る。
ガジ通りに戻って来た。
昼飯。トルコは世界3大美食にカウントされてるけど、一体どこのどいつが選定したのか甚だ疑問なくらい別に特段おいしいわけでもない。短期旅行で珍し気にケバブやドネルを食べりゃあまぁおいしくも感じるだろうけど、はっきり言って3日もケバブがつづいたらほとんどの日本人は飽き飽きしてしまうに違いない。というか、トルコ料理とはいうけれど、日本人の感覚からすれば中東十数か国全部ひっくるめて全部同じようなもんだ。勿論、各国独特の味付けだったり調理方法があるにはあるけど、味に深みはなく 表面的なスパイスの味で違いがあるくらいにしか感じない。2年もカスピ海の周りをぐるぐるしてきた管理人が言うのだから間違いない。ちょっくら旅行の”おいしい”と、生活の中の食事としての”おいしさ”は まるきり違うのだ。とはいえ、写真の鶏肉トマトソース煮みたいなのは普通においしいんだけど。
と、そんな文句を頭の中で並べながらふとテレビに目をやると、メッカでカーバの周りを周るタワーフの様子が映っていた。
2022年の11月、自分も白布を纏って同じことをしていたんだなぁと思うと、なんだか信じられない気分になった。
St. Giragos Church
今度は少しだけ東に歩いていくと、Sheikh Matar Mosque のミナレットが見える。
基部をよくみると4本の柱で建っていることから、4本脚のミナレットと呼ばれている。
更にすこし東側に行くと、St. Gigoras Church; 聖ギゴラス教会が現れる。
中東で最大といわれるアルメニア正教会だ。
教会西側と南側のポルチコ
教会内部。
東側には全域にわたってイコンが飾られていて、祭壇は全部で7つもあるというユニークな構造。
一番最初に教会が建てられたのは1515~18年頃、その後修復や増築を繰り返すも1880年に火災でほぼ全焼。現在の姿の原型は1883年の再建のものだという。その後も第1次世界大戦の影響など相まって 2000年頃まで荒廃した状態のままだったのが、2009年から始まった修復プロジェクトによって改修作業が進み、2016年スール地区におけるPKK とトルコ軍の衝突などを乗り越えて2022年に現在の状態となって公開されたのだ。
教会の裏庭。現役で水がでる井戸と、
アルメニア語の碑文。
なぜか教会裏に設けられたトルコカーペットの展示スペース。
Mardin Gate
教会を出ると、じっちゃんが陽気に踊ってた。
東側の城壁に沿って南に進んで、
ディヤルバクル南に位置する Mardin Gate; マルディン門まで戻って来た。
城壁の至るところに、色々なレリーフが施されているのを発見するのもおもしろい。
碑文のようなものから、何だか意味深なものまで 色んなデザインがある。
マルディン門の鉄の扉。
Ahmet との出会い
ちょうど聖ギラゴス教会を見ているとき、日本に住んでいる友達がいるから紹介するよ、と言われて会う事ができた Ahmad.
最近話題が絶えない埼玉県在住のクルド人だった。たまたま、歯の治療をしに故郷であるディヤルバクルに戻ってきているところだったらしい。まぁ日本のクルド問題に関しても色々話したけど、それは置いておいて、めちゃくちゃ興味深い話があったから箇条書きにしておこうと思う。
・グランドモスクの地下には海水の水路があってそこには海水魚が泳いでるらしい。一般公開はされておらず、他国から要人が来た時だけそれを見る事ができる部屋に通されるらしい。けど、この海水が一体どこから引かれているのか謎だという。
・2015年から2016年にかけてつづいた治安当局とPKKの衝突は、アルメニア人やユダヤ人居住者が多いために多く貯蓄されていた金を収奪するために故意に引き起こされたという。事実、紛争後スール地区の建造物のほとんどはトルコ政府によって接収されている。
・人類最古の文明発祥地 に非常に近いことから、様々なものが発掘されるらしいけど 発掘調査がある度にアメリカないしイギリスのチームがやってきて、発掘された”なにか”を持ち帰ってしまうらしい。何が発掘されているのかは一般の発表もなく、発掘チームもほとんど非公式だという。近くにある別の遺跡には、イーロン・マスクも発掘に立ち会うために来ていたらしい。
とまぁこんな感じのロマン溢れる話を聞くことができた。
小さい頃からディヤルバクルで暮らしてきた Ahmad の言うことだから、どれも根も葉もない都市伝説とは思えないのがまた恐ろしい・・・ 世の中には、本当に触れてはならない事実というのが夥しく存在するらしい。
そんな話を聞いた後は、またマルディン門を通って市内に戻る。
ディヤルバクルでしか見ることの無かった小さいスイカみたいな瓜。
味はきゅうりに近いらしい。食べてみればよかったなぁ・・・
城壁
Ahmad とその友人とお別れして、日が落ちる前に城壁に上ってみようと思う。
ところどころ城壁に開いた部屋。修復されたのか 保存状態のよいものから崩壊したようなものまでいろいろある。
城壁にあるこの超急な階段を上ると、
外壁 Dış Kale の上に来ることができる。
マルディン門の方へ歩いていく。
夕日を浴びてオレンジに輝くディヤルバクル城塞。
3世紀頃からローマ人によって建設が始まったという。349年にコンスタンティウス2世の命で 大幅に拡張されて、その後1500年に渡って数えきれないほどの崩壊と修復を繰り返してきた。高さは概ね10m、北東部にある内壁 İç Kale と合わせて5,800m もの長さがある。
観光文句的には「万里の長城に次ぐ長さ」らしいけど、真偽のほどは?
南東方向のヘヴセル庭園。
すっかり日が落ちた頃、野営地を探して彷徨う。
結局、外壁の外側、ややマルディン門から西にずれた場所でちょうどよい場所をみつけた。
世界遺産の城壁のすぐ傍らで野営ができるのはなかなかいいんじゃないだろうか、とか言いたいところだけど 夜になっても気温が下がらないからなかなかしんどい。
つづく