こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。
Haghpat: ハフパットの街で偶然見つけたキャンピングサイトにて野営後、再び国境に向けて点在する遺構を巡っていきます。
にゃこ太郎×Tenere
朝。
キャンプサイトのオーナーの飼い猫が、テントの周りで遊んでる。実は昨夜テントを設営してる時からフライの下に潜り込んだりしてきてた。
だっこも嫌がらないから、勝手ににゃこ太郎という名前をつけて猫チャージさせてもらおう。
にゃこ太郎の兄弟は、ちょっと慎重目。
テネレの上のカーペットが気に入った様子のにゃこ太郎。
そのまま就寝体勢に入るにゃこ太郎。
Haghpat Monastery
にゃこ太郎と別れ、サイトのオーナーに礼を言って 同じく ハフパットの街にある Haghpat Monastery; ハフパット修道院にやってきた。
ここもサナヒンと並んで世界遺産となっている。が、時間帯の問題なのか サナヒンにほとんど人がいなかったのに、こちらは観光客でごった返していた。小学生くらいの集団もいたから、たぶん日本でいう法隆寺みたいな修学旅行スポットなんだろう。
敷地内には多くの建築物がひしめき合っていて、やはり全体像はかなり複雑。
もっともメインとなる Cathedral of St. Nshan; 聖ヌシャン大聖堂の西側ファサードは、1210年に完成した直方体のガビット入り口となっている。
聖ヌシャン大聖堂ガビット入り口と、ガビットの北側ファサード。
ガビット内。東西方向と南北方向のアーチがクロスした独特の構造をとっている。
ガビットの西側を支える柱。細部に精緻な彫刻が施されている。
ガビット内ハチュカルや、
壁面のいたるところに彫られた碑文。
ガビット東側、聖ヌシャン教会の入口。
教会内部。聖ヌシャン教会は、以前紹介したサナヒン修道院の救世主教会をつくった Khosrovanush; ホスロヴァヌシュによって 967-976年頃に着工されて、次代 Smbat Ⅱ; スムバト2世の治世 991年に完成した。ホスロヴァヌシュはバグラトゥニ朝 5代君主 Ashot Ⅲ; アショット3世の妻だ。アルメニアに残る多くの教会は他民族の侵攻や地震によって、現在見られる姿はほとんどが後世の修復後の姿だけど、ハフパットに残る遺構たちは建設当時の姿を今にとどめるとても貴重なものなのだ。
東側祭壇上のイコン。
ドーム下面。
聖ヌシャン大聖堂内の壁面に残るフレスコ画は、祭壇のイコン含め全てオリジナル。聖堂がつくられた10世紀よりも後の、12世紀以降に描かれたものらしい。黄色い衣をまとった人物は、Khutlubuga; フトゥルブガという人物で、壁画制作におけるパトロン的な人物だったようだ。
聖ヌシャン大聖堂の両脇には、小さな礼拝堂が2つある。南側に位置するのが St.Grigor Church; 聖グリゴール礼拝堂。
1023-25年の築造と、古い。
西側ファサード、入口上部には16ならぬ17菊花紋!
内部は質素なものだった。
北側に位置するのが St. Astvatsatsin Church; 聖母教会。聖グリゴール礼拝堂とほぼ同時期の1208-20年頃に完成した。
聖母教会内部も、豪華さはないものの、4面をアーチで支えられた石造りの空間で、800年前にタイムスリップできる。
聖母教会と聖ヌシャン教会ガビットの間からの眺めは、ハフパット修道院の複雑な構造のなかでも特に魅力的だった。
1000年の時を経た石造りの壁面と、奥へつづく回廊と曇天が、本当に中世の世界に紛れ込んでしまった感覚にさせてくれるのだ。
さて、聖母教会の更に北側に位置するこの建物は、当時の修道院長 Hamazasp; ハマザスプの名をとってその名で呼ばれている。
ハマザスプの完成は1257年。ガビットとしてつくられたようだけど、奥に教会はない。
ドーム中央から挿す光でのみ内部が照らされる。空間としてはハフパット修道院の建築物群の中で一番広いと感じた。
ドームを支える強大な柱には、碑文やクロスが彫られている。
ドーム下面。
ハマザスプ内北側壁面の概観と、ドーム部分の意匠。
ハマザスプ内東側の奥には、教会はないものの、わずかなニッチがつくられ、階段であがった小さな空間に祭壇が置かれていた。
祭壇上から、入口(西側)を見る。
ハマザスプを出て、聖母教会と聖ヌシャン教会の間につづく回廊部分を進む。
Gallery&Academy とよばれるこの回廊部分には、Amenaprkich; 救世主 と名のついた有名なハチュカルが鎮座している。
キリスト自身が磔となった様子が彫られているけど、アルメニア国内に5万基以上あるとされているハチュカルの中でも、キリスト自身の姿を彫ったものはわずか10~20基ほどしか発見されてないという。独特の赤い色は、アララト渓谷に生息するカイガラムシの一種 アルメニアコチニールから抽出されるVordan Karmir; ヴォルダン・カルミールという染料によるもの。1273年につくられてから、ずっとここに置かれているというから驚きだ。
ギャラリーの南側壁面や碑文。
ギャラリーを東側へと進むと、Library; 書庫がある。10世紀後半ごろにつくられたとされている。
地面に無数に開いた穴が目を惹くけど、これは当時修道士たちが敵から書物を隠すためにつくられたとも、ワインや乳製品を保管するたえめだったとも言われている。
書庫東壁面と基部の彫刻。
壁面の8本の柱にはそれぞれ異なった意匠が施されていた。
ドーム下面。現在の書庫ドームは1262年に再建されたもの。
書庫の前にて南側に折り返すギャラリー。
ギャラリーの南側回廊に並ぶハチュカル。
そのまま回廊を出ると、聖ヌシャン教会の南側ファサードにつづいている。
聖ヌシャン教会東壁面と、上部の彫刻。
これは、サナヒンの救世主教会東壁面にあったのと同じで、バグラトゥニ朝6代君主 Smbat Ⅱ; スムバト2世と その弟である Kiurike Ⅰ; キウリケ1世 が向き合って教会を共に支える図だ。
敷地のやや北東側に目をやると、また立派な鐘楼が建っている。
先の修道院長 Hamazasp; ハマザスプによって 1245年に建てられた3階構造のベル・タワーだ。
鐘楼1階部分外壁の4隅はニッチ構造となっていて、その上部にはムカルナスのような装飾がされた非常に凝ったつくり。
鐘楼壁面に彫られたクロス。
敷地内の北西部には、直方体の霊廟が3つ、ひっそりと横たわっている。
Ukanants; ウカナンツ家の霊廟 ということらしいけど、このウカナンツ家が何者なのか、この修道院と何の関係があるのかよくわからなかった。石造のキューブである霊廟自体は8世紀ごろのもので、ハフパット修道院最古の聖ヌシャン教会が建てられるよりも前からここにあるという。ん~ どういうことなんだろうか。
霊廟の上に置かれていたハチュカルは後年のものらしいけど、彫刻はひときわ精密で目を惹くものだった。想像してみて欲しい、電動ツールなんて一切ない時代に、おそらく鑿や槌といった道具と手だけで、職人がこのハチュカルを彫っている姿を。
中央の霊廟の上にあったはずのハチュカルは行方不明で、現在はこの2つのみが残る。
敷地内、野生のヒレハリソウと、にゃん。
ってなわけで、やっぱり超ボリューミーなハフパット修道院だった。
同時期に建設を繰り返したサナヒンが、セルジュークやモンゴルの侵攻を受けるなか、どういうわけかほとんど無傷の状態を維持していきたという驚異の歴史をもつ。
中央アジアを旅してた時に、東方教会の多くはティムール帝やウルグ・ベグによって破壊しつくされてしまったことを学んだけど、こうやって建設当時の姿を今にとどめてくれて、本当によかった。
Bad Road ~UAZに助けられて
ハフパットを去って、元の道に戻ればよかったんだけど、北東側につづく別の道でハイウェイに戻ることにした。
けっこうぬかるんでて嫌だなぁーと思い、やっぱり元々ハフパットに来た時の道に戻ろうか悩みつつ、惰性で進んでいくも、
途中からロッキーになった場所で案の定転倒。前輪が山側の岩の上にのっちまってるから、どう頑張っても起こせない。
しかしまぁ、こうやってよくわからん山の中で転倒して起こせなくなっても、三脚立ててポーズとって写真を撮っておくという心の余裕だけは養われた。約2年前、旅に出た直後同じような状況になってたら、さぞテンパってたことだろう と思う。
何度か引き起こしトライしてヘロヘロになって、そろそろ引きずって前輪の位置を変えるしかないかと思っていると、救世主 UAZ現る。
が、オンボロUAZ, ロッキーな急坂でブレーキが効かず、、、転倒したテネレが轢かれるっ・・・!!となった瞬間、寸前でなんとか止まってくれた。
あわや “こかしたバイクがおんぼろトラックに轢かれて旅終了” という最悪のシナリオになるところで焦ったけど、まぁ結果オーライ。
ドライバーに助けてもらい、ついでに一度下ろした荷物を荷台に積んでもらってこの悪路を下っていく。
分岐点で UAZは別道へ。例を言って荷物を元に戻す。
幸いこの後は緩めなダートになってくれてそのまま舗装路に復帰することができた。
Akhtala Monastery
ようやっハイウェイに戻った後、再びデベド川を渡って Akhtala; アクタラの街へ。
デベド川に注ぐ Shamlugh; シャムルフ川沿いの峡谷をのぼっていくと、左手に突如城壁が姿を現した。
Akhtala Monastery; アクタラ修道院とその城塞だ。
道から見えるのは、教会東側の壁面だ。
城壁の一部を利用した入口を入っていく。城塞は10世紀後半ごろ、キウリケ朝によって築かれた。
北側から 教会へとつづく道。
入口の城壁内に収められたハチュカル。
城壁で囲まれた敷地の南部に位置する St. Astvatsatsin; 聖母教会。
12世紀の後半、Kiurike Ⅱ; キウリケ2世の娘 Maryam; マリアム王女によって建てられてとされているけど、聖母教会が建てられる前には、更に古い教会跡があったらしく、それらにまつわる伝承もいくつかあって複雑だ。
教会北側壁面。
西側には特徴的な列柱式のナルテックス。
ナルテックス内面。
西側のファサード。一番南側には小さな礼拝堂が併設されている。
教会内部への入口。
教会内部。
壁面に残るフレスコ画と、石造アーチの成す美しい空間に圧倒される。
中央4本の長大な柱と、各壁面がアーチで繋がる。
西側内壁(入口上部)。
入口寄り、南壁面。
入口寄り、北壁面。
ドーム下面。
東側祭壇と、
顔面部分が破壊された聖母のイコン。
祭壇上壁面の下部にもフレスコ画が残る。
祭壇寄りの南北壁面。
この素晴らしく保存されたフレスコ画は、1205-16年にかけて Ivene ⅠZakarian; イヴァネ1世によって制作された。
イヴァネ1世は、兄弟である Zakare Ⅱ Zakarian; ザカレ2世とともに、ジョージア王国 Tamar; タマル女王の元でイスラム勢力の駆逐に貢献したザカリアン朝の英雄だ。イヴァネ1世は、先の西側ファサードに併設された小さな礼拝堂に埋葬されている。
教会南側ファサードと扉の意匠。
東側ファサード。楕円形に彫りこまれたニッチ上部の装飾が特徴的。
敷地内には荒廃した遺跡がいくつかあるけど、その中で一番大規模な 北西に位置する廃墟。
この雰囲気、最高。個人的には教会のフレスコ画と同じくらいテンション上がる。
下におりて内部に入ってみる。
荒廃した遺構の壁面を凌駕していく植物。
理想的な廃墟、廃墟の鏡、廃墟of廃墟。
はいきょはいきょうっせーよ と思うことなかれ、世界には意外にも沢山の廃墟好きがいるのだ。
ってなわけで、やっぱり来てみると「来てよかった」と思えるアルメニア修道院の迫力と奥深さ。
アルメニア国内に星の数ほど存在する修道院や教会の、わずか1部しか訪れることはできなかったけど、ほんのうわべだけでも楽しむことができたような気がする。
アクタラ修道院と城塞をもって、今回のアルメニア周遊における修道院巡りはおしまいだ。
アクタラの街に戻って、廃ロープウェイをチラ見。
これは廃線・・・? いや、でもアラヴェルディの街を見下ろした時は貨物車が走ってたから現役か?
廃ロープウェイ×Tenere
さて、ここからようやくジョージアへ再入国していく。
つづく