【Republic of Turkey episode 26】Ayfer 一家と過ごす、Eskişehir での日々

どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。

イズミルから再び内陸へと入り、野営後 エスケシェヒル県の中心都市 Eskişehir; エスケシェヒルに到着しました。
東トルコ、あれは確かエルズルムからヴァン湖方向へと走っている時に道中で出会った家族に、「もしもエスケシェヒルを通るなら家へおいで」と誘ってもらい、その言葉通り約1カ月ごしに彼らを訪問するに至ったのです。

Odunpazarı地区の散策

Ayfer 一家の家に着いた翌日は、まず Odunpazarı; オドゥンパザル と呼ばれるエスケシェヒルの歴史地区を案内してもらうことになった。

市内を走るトラムで街の中心へと向かう。トラムはバスに比べると路線を把握しやすいけど、やっぱり現地の人と一緒だと心強いよね。

Odunpazarı Mansions と呼ばれるオスマン帝国時代の木造建築がずらりと並ぶ。

オドゥンパザルとは、「薪市場」を意味するらしく オスマン帝時代は薪の交易地として栄えたらしい。

キャラバンサライのように2階層の塀で囲われた場所に、お土産が沢山売られている。

エスケシェヒルの特産品として有名なのが、この海泡石だ。Meerschaum; メシャム とか、Sepiolite; セピオライトともいわれる。
ワンピースの海桜石みたいな名前でちょっとロマンがあるけれど、エスケシェヒル産の海泡石は良質で白く、加工もしやすくて 特別にエスケシェヒル石とも呼ばれるらしい。

パイプ以外にも、宝飾品だったり、ジュエリーボックスだったり、色々な製品に加工されていて、個人的には何か買っていきたい気満載だけど、そこはバイク旅の悲しいところ。

お隣さんの Kütahya; キュタヒヤ産の陶器もいいなぁ・・・

ほとんどの建物は綺麗に修復されて、レストランや雑貨店なんかに改装されている。
トルコ国内からも人気の観光スポットみたいだ。

世界中の木工アーティストによる作品の展示場。

オドゥンパザル地区の南東部に位置する Kurşunlu Cami; クルシュンル・モスク.

モスク正面のポルチコと、アーチを装飾する縞模様の迫石(Voussoirs)。

モスク内部と、

ミフラーブ。周りを装飾する緑がやれてて抹茶のような渋い色合い。
築造されたのは16世紀で、多くは修復されてるけど 一部当時のままの姿をとどめる。

クルシュンル・モスクは、その周りを囲う回廊部分が複合施設になっていて、今では工芸品の販売店や カメラのミュージアムが並ぶ。

ずらりと並ぶ海泡石の品々。

特にパイプに施された超精密な彫刻は見惚れてしまう。
昔入り浸っていた東京の蚤の市では、この類のパイプがたまに売られていた。煙草の熱によってだんだんと琥珀色へと変色していくのがまた味わい深い。メシャムは多孔性で化学物質に対する吸着性があるから、フィルターのような役割も果たすらしい。

アラビア文字のカリグラフィーアートや、ガラス細工といった工芸品も並ぶ。

なにかバイク旅にも嵩張らない良いのがないかなぁとみていると、こんなかわいらしい海泡石製の紙煙草用フィルターがあった。
管理人煙草は吸わないんだけど、いいなぁと見ていたら Ayfer が記念に ということでプレゼントしてくれた。ありがとう!!

 

カラフルなレトロ木造の家々が建ち並ぶ中、色んな工芸品が路地で売られている光景は なかなかTouristic ではあるけど、またいつか再訪して、その時は沢山お土産を買って帰りたいなぁと思う街だった。

 

地元のスイーツ屋さん。

一見裂けるチーズのように見えるのは、Met Halvah; メト・ハルヴァ と呼ばれる特産のお菓子。

他にも色んな種類の甘味が売られていた。

これはまさに修復中なんだろうか。

丘の上に上って行くと、そこにはクラフトマンの工房が軒を連ねるエリアがある。

ガラス細工の工房。

かわいらしい小さなガラス製の動物たち。

こんな街灯のミニチュアもある。

こちらは機織り職人の工房。

 

昔ながらの機織り機をつかって、スカーフや生地が編み込まれていく。

“絹の道” をデフォルメした地図が飾られていた。思えば、今回の旅はシルクロードをなぞるようなルートが沢山あったなぁ。
アナトリアに養蚕がもたらされたのは6世紀頃とされていて、ビザンツ帝国の修道士が、中国 ないしサマルカンド付近からこっそりと蚕の卵をコンスタンティノープル(=現在のイスタンブール)に隠し持ちかえったのが始まりなんだと。その後は、西アナトリア 特にBursa; ブルサを中心に絹産業が発展する。

だけど、ここで使われているシルクは、エスケシェヒルで養蚕されている蚕によって生産されているらしい。

こちらは、、、色んな文房部の工房。

エスケシェヒルの職人による陶器。切手みたいな形をしたタイルなんて箸置きにちょうどよいね。

マグカップも色形とりどり。

この革のハードカバーでできたノートブックなんかもう買う寸前までいったけど、まぁまぁの値段だったし かなり嵩張るから我慢した。

オドゥンパザルを下って、メインストリートに戻って行く。

道の真ん中で新婚さんを祝う踊りが繰り広げられる。

Porsuk Stream

中心街を歩いていると、

頻繁にエスケシェヒルの白バイが取締りをしている。ここはGS勢か、、、と思っていると、

トレイサーも使用されていてちょっと嬉しい。

エスケシェヒルの街を象徴するように街を横断する Porsuk;ポルスク川の近くまでやってきた。

橋のライオン像と、川を遊覧する小舟。

せっかくだからということで、皆で一緒に船に乗る。
彼はAyfer の息子の Yashin. 将来は歯科医師を目指すらしい。

川沿いは美しく整備されていて、レストランや洒落たカフェがたくさん建ち並んでいた。

中心部の繁華なエリアを少し散歩して、

Ayfer家に帰宅。

Sazova Park

翌日は、エスケシェヒルに沢山ある公園の中でも、一番シンボリックな Sazova; サゾヴァ公園にやってきた。

歴史があるわけじゃないけど、見た目のインパクト的にエスケシェヒルの代名詞的な存在のMasal Şatosu; マスル・シャトー.
全部で26の塔があって、それぞれがトルコ内の歴史的建造物を表わしている。

人口湖と海賊船。

プラネタリウムでは、大変申し訳ない事に後半寝てしまった・・・

トルコ空軍の戦闘機も展示されている。
他にも 動物園や日本庭園、科学実験棟など イメージ的には九段下の科学技術館と、上野動物園が合わさったような広大な教育公園といった雰囲気だった。

Seyyid Battal Gazi Complex

その日の午後、エスケシェヒルから南に約40km ほど行った場所にある Seyitgazi; セイトガジ という村にまで車で連れて行ってくれた。

ここには、Seyyid Battal Gazi Complex というKülliye; クーリエがある。クーリエとは、特にオスマン朝時代に発達した、モスクを中心とする複合施設で、厨房や教育施設 貧しい人への宿泊場などが一体となった場をさす。

720年ビザンツ帝国との戦いで倒れたイスラムの英雄 Seyyid Battal Gazi を称えるため 1207-1208年にかけて建てられた。

南側にあるのが初期に建てられたモスクで、西側には八角形の霊廟が隣接している。

列柱式のポルチコが特徴的。

モスクが建てられる以前は古い修道院があったことから 柱頭は明らかにローマ風のアンカンサスで、モスクの建造時に再利用されたことがわかる。

 

入口と重厚な扉。

モスク内部。

16世紀に施設の修復に携わったとされる Mihaloğlu Ahmet と Mehmet Bey 兄弟の墓。

こちらは施設の修復作業中に発掘された首の無い遺骨に敬意を表して置かれたTabut; 棺桶。誰のものなのかは不明。

そしてこの黒金のローブで包まれた立派なタブートが Seyyid Battal Gazi のもので、隣の赤いローブで包まれた墓は Elenora という女性のもの。元々はビザンツ帝国の王の娘だったエレノラは 敵であるバタル・ガジと恋に落ちて 負傷したバタル・ガジをかくまったという。
ただ、これはあくまで民間伝承のようなもので 史実ではないとされている。なので、このエレノラの墓も、あくまで民間伝承や異文化融和の象徴、地域のアイデンティティを象徴するものとして置かれているもので、実際にエレノラという人物が埋葬されているわけではない。

 

モスクの最南端に、ミンバルとミフラーブが置かれている。

モスクの対面、北側には 後に拡張された際のマドラサや厨房、救貧院といった施設があったと思われる。

内部の様子。

モスクと霊廟の更に西側に隣接するこの建物は、このモスクと霊廟の建設の発起者 Ummuhan Hatun ; ウンムハン・ハトゥンという女性の霊廟で、現地の看板によると、彼女はこれまでも何度か登場したルームセルジューク朝11代スルタン Alaeddin Keykubat; ケイクバート1世 の母親だという。ただし、Wiki先生によると、ウンムハン・ハトゥンという女性は、ケイクバート1世の父親、Kaykhusraw Ⅰ; カイホスロー1世の更に母親となっているので、ケイクバート1世の祖母ということになる。どちらが正しいのかは不明。

南側の入口から、

中に入ると、

中央奥の半地下洞に そのタブートが安置されていた。

モスクが建つ丘の上から、北側にセイトガジの村が一望される。

モスク前のポルチコは、そのまま東側から折り返して北側へとつづいて、

施設の北東側へと繋がっている。

北東の門と、

そこに見られた特徴的なレリーフたち。

ってなわけで、エスケシェヒルの散策記でした。

おまけ

Ayfer 家滞在中、寝床にさせてもらったYasinの部屋。

 

これぞまさにローカル飯! サラダ、フルーツ、オリーブ、蜂蜜、チーズなどがメインのトルコの朝食。

一般的にはçay;いわゆる紅茶ばかりがイメージされるけれど、トルコでは地域によって実に様々な茶が嗜まれる。
これは Linden Tea.

Ayfer が見せてくれた、現トルコ語が流布する以前 オスマン時代のアラビア文字で書かれた文献。注意しないといけないのは、あくまで言語はテュルク語であって、表記に使用されているのがアラビア文字 ということで、アラビア語ではない。
トルコ民族主義によって イスラームからやや世俗化を推進したことに付随して、オスマンに帰属したアイデンティティを失う側面も多分にあったことから、英雄アタトテュルクに対する考え方も人それぞれだなぁと感じることもあった。まぁ革命やクーデターと名のつくラディカルな転換においては、万人の支持を得ることなんて有り得ないんでしょう。

とある日の晩、親戚が集合した際に Ayfer のお母さん と思いきや隣人さんのお母さんと。

つづく

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