【Republic of Turkey episode 20】Xanthos に残るリュキアの碑文と、Kayaköy のゴーストタウン

どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。

ここまでのルート

チュクルバーグ半島の朝

朝、かなり不安な場所だったけど 何事もなく夜を越えられた。

もう朝から暑すぎてやってられん。

チュクルバーグ半島から本土側へ戻って、

崖上の道まで戻って行く。

レストランの入口なのかな、印象的なモニュメント。

また、海岸線を西へと進んでいく。

Patara 古代遺跡 とビーチ

オリンポスやマイラとともに、古代リュキアを構成する都市国家として最も重要なもののうちのひとつ、Patara; パタラの遺跡にやってきた。サンタクロースの起源として知られる St. Nicholas; 聖ニコラス の出生地でもある。遺跡の北門脇からサイト内へと入って行く。

遺跡は広大で、考古学的な作業も全然完了していないらしい。大小さまざまな遺構が散在する中で、アイコニックな場所を紹介したい。
まずは円形劇場。紀元前2世紀~1世期ごろにつくられたと考えられている。

直径約80m で、収容人数は約6,000人ほど。下段観客席の一番上列の石段には背もたれがついている。2,000年以上前の石製ベンチだ。

Bouleuterion とよばれる、評議会。当時リュキア同盟の首都だったパタラの集会が行われていたらしい。

ブールテリオンの内部にも、小さな円形劇場があって、だいぶ修復されている。

これは、当時地中海貿易に使われえていた船の復元模型、、、かな?

ブールテリオンの前から、南北に 港に向かって延びるハーバーストリート。

通を囲う列柱の柱頭は完全なイオニア式で、

大理石製の柱と、花崗岩製の柱がある。

 

中央浴場や、小浴場の廃墟。その他にも浴場やバシリカの廃墟が多数散在していた。
これだけ歴史的に重要な遺跡だというのに、まだ未発掘のまま放置され 雑草や低木でアクセス困難な遺構も多数あるパタラ。良いのか悪いのかわからんけど、時間に余裕があればそれらすべてを巡ってみるのも楽しそうではある。

大きな木の陰で休憩中のマダムたちがほほえましい。

遺跡の更に南側までつづく道を突っ切って行くと、

Patara のビーチに出た。ここはどうやらパタラの遺跡を訪問した人か あるいはビーチのためにチケットを購入したひとしか来れない場所のようだ。

適当に海で涼んだ後、ビーチにあった店でアイスを買ってしばらくダラつく。

Xanthos 古代遺跡

パタラのビーチでアイスを食べダラついた後は、すぐ近くにある Xanthos; クサントスの遺跡にも足を運んでみた。
もうこの辺はリュキアの古代遺跡だらけで、まじでいくら巡っても巡り切れないほど遺跡だらけなのだ。

すぐ近くの Letoon; レトーン古代遺跡と共に世界遺産に登録されているにも関わらず、なぜか他の遺跡に比べてクサントスは放置され具合が強かった。場所的な理由もあるんだろうけど、受付とかも適当で 見ようと思えばお金を払わなくても見て回れてしまう。というか受付の人もなんか払っても払わなくてもどうでもいいや みたいな雰囲気出してる(ように見えただけ)。

道路を挟んで東西に分かれている遺構群の内、道の西側に広がる遺跡の北に聳え建っている Inscribed Pillar.
これはなんと紀元前425~400年頃に建てられたもので、ヘレニズム期よりも古い ペルシャ時代のリュキアの遺構ということになる。リュキアの王子 Kherei が戦ったことを記念して 建てられた と現地の看板にあるが その戦いがどういうものだったのか、戦争の相手や勝敗などはよくわからない。

目を見張るべきは、柱の4面にびっしりと彫られた碑文で、一見他の遺跡のようにギリシア文字かと思いきや これが古代リュキア文字だという。未解読な部分も多いというリュキア文字だけど、現在解読されているものの大きな手掛かりになった碑文のひとつだ。

南北にのびる列柱群とその先に見える円形劇場。

詳細不明の石棺。

この劇場も、最初につくられたのはヘレニズム期の紀元前2世紀後半で、他のリュキアの劇場と同様に141年の地震で損壊後に再建されている。けっこう大きく見えるけど、収容人数は2,200人ほどらしい。

劇場下部に残る回廊や、フロンス・スカエナエの遺構。

そしてクサントスの遺跡で最もアイコニックといえる 劇場のすぐ脇に建つモニュメント。
Harpy Monument; ハーピー記念碑 と呼ばれている。

やはりペルシャ期(アケメネス朝支配下のリュキア)の紀元前480~470年頃に建てられたモニュメントで、紀元前480年のサラミスの海戦で、ペルシャのクセルクセス1世に仕えたクサントスの治者 Kybernis; キベルニス の墓だと考えられている(現地の看板ではキベルニスは戦死したと書かれているけど、実際には”姿を消した”らしい)。
上部の彫刻は、残念ながらレプリカで オリジナルは大英博物館にある。ペルシャ期ということもあって、確かにペルセポリスで見た彫刻と雰囲気が似ている。鳥の体と翼に、女性の頭をもつ Harpy; ハーピーの意匠が特徴的なことから この名前で呼ばれているっぽい。

ハーピーモニュメントと並んで建つ 古代リュキアの柱式石棺。これが誰の墓なのかよくわからない。
クサントスの墓で発見された石棺や彫刻のオリジナルは多くが大英博物館に収蔵されている。その代表が Nereid; ネレイド記念碑や Payava; パヤヴァの石棺で、台座部分だけがここクサントスに残されている。

さて、道を挟んで東側のアゴラに行ってみる。

この無造作に放置された残骸にも、おもしろいレリーフがあったりする。これはギリシャ文字なのか、リュキア文字なのか・・・

東の行き止まりにある Xanthos Church.
教会というくらいだから、遺跡群の中ではだいぶ後期、ローマ期のキリスト教が普及した後のものなんだろうか、詳細不明。

というわけで、クサントスの遺跡は一見ぱっとしないようで、よくよく歩き回ってみると古代リュキアへの関心を更に掻き立てられる遺跡なのだった。

Fethiye へ

クサントスを去った後は、また内陸の道へと戻ってまた少し西へと駒を進めていく。

この辺を走ってる時は、なんだか久しぶりに少しだけ涼しかったような気がする。

植生はなんだかやたらと松が多くて、高台の道路脇からは海岸線の形がくっきり見える。
テネレにはまださっきパタラで泳いだときの水着が干しっぱなしだ。

ん、よくみるとあの小さなビーチを独り占めしてるやつがいるな。

まさにジオパーク。急な断崖が形成する海岸線沿いを気持ちよく走って行く。

そいでもって辿り着いたのが Fethiye; フェティヘの街。

なかなかの観光地なのか、道脇にはずらっとレストランや土産屋が並ぶ。
写真を撮ってたら、土産屋のおっさんが袋一杯入ったナッツをくれた。

Kayaköy の巨大廃墟群 と悲しい歴史

とりあえずフェティヘの街はスルーして、それよりも少し南にある Kayaköy; カヤキョイ という場所にやってきた。

今まで色んな廃墟を見て来たけど、ここ Kayaköy にはそのどれをも凌駕する巨大なゴーストタウンが広がっているのだ。
近づくに従って石造りの廃屋が丘の斜面にずらりと姿を現す。今では観光地化されてるゴーストタウンの内部へと入って行ってみよう。

時は一気に進んで20世紀初頭、第1次世界大戦にて敗北したオスマン帝国の旧支配領土を、連合国がセーブル条約に基づいて分割しようとしていた。

これを契機とみた連合国側のギリシア王国は、ビザンツ帝国の領土を復活させようというΜεγάλη Ιδέα ; メガリ・イデア 思想の元、混乱に乗じてアナトリアへ侵攻し、希土戦争が勃発するが、、、ムスタファ・ケマル率いるトルコ民族主義勢力に敗北。

新たなローザンヌ条約の元、新生のトルコ共和国とギリシアの間では住民の強制交換が行われた。

(この羊たちの面倒は誰がみてるんだ・・・)

この住民交換の際に、トルコ側のギリシア系住民の居住区だったのが ここカヤキョイだったのだ。

トルコ民族主義は、超多民族国家だったオスマン帝国から、トルコ単一主義的な意味での「民族純化」を押し進めると共に 将来的な紛争の原因となりうるギリシア正教系の住民を国家内から排除したかったんだろう。

そんなわけで、以前はギリシア正教系の住民で栄えていたというこの街から、強制的に 一気に人が消えたのだ。
強制移住させられたギリシア系の人々は、Μικρασιάτες; ムバシリスと呼ばれて、本国のアテネやテッサロニキなどの大都市、あるいは周辺の島々や北部のマケドニア地方などに移り住んでいったらしい。

ちょうど夕刻前、丘の斜面にならぶ石造りの廃屋に西日が差して 何とも表現できない景観を成していた。
廃墟好きであれば、1日あっても見飽きないと約束しよう。

希土戦争のさなか、トルコ国内ではギリシア系の人々が、ギリシア国内ではトルコ系の住民が迫害や虐殺の対象となったことから、ここの場所でもギリシア系の住民が殺害され 今でもその幽霊が住み着いているとか いないとか。そんな言い伝えを恐れる心情もあって、ギリシア系住民が去った後のこの場所に 再びトルコ系住民が長く定住することはなかったのだという。

この時のお互いの残虐行為とそれに対する報復の連鎖によって生まれた深い憎悪は、100年近く経った今でも両国間で完全には払拭されていないらしい。

それにしてもトルコというのは、まさに世界の中心のような位置で かくも沢山の国と国境を接し 凄まじく入り組んだ図形の上で薄いコインを直立させるような均衡状態を必要とされる国だなぁとか考えながら、廃屋づくしの丘を下りていくのであった。

ゴーストタウンを去った後、野営地を探して彷徨う。
スイス人ライダーの Bastian が教えてくれたビーチに目星をつけていたんだけど、地図上ではどう見ても到達不可能な山を越えないと到達できない。そういえばトレッキングで行ったって言ってたっけかな・・・

そんなわけで、またよく分からない郊外の

よくわからない小さな道にある、

よく分からない奥まった場所にテントを張って寝場所を確保するのであった。

つづく

管理人の旅を支える道具たちはこちら↓↓↓