こんにちは、世界放浪2輪旅中の管理人です。
南イタリアの美しい廃村 ロシーニョ・ベッキアで朝を迎え、ようやく半島の西側 ティレニア海へと進んでいきます。
Roscigno Vecchia の朝
ロシーニョ・ベッキアの朝。
いくら廃村の中とはいえ、ユネスコ登録の国立公園内で野営するのは地元警察にバレないか不安だった、、、が、無事何事もなく朝を迎えられた。
それにしても, Brindisi からイタリア入りして ずっと廃村とか廃墟ばっかり巡ってる気がする。別にめちゃくちゃそれを意図したわけじゃないんだけど、それだけ南イタリアにはそういうのが多いってことなんだろうな。
おそらく今まで訪れて来た廃墟類の中でも最も麗しい場所だった。
惜しみつつ 撤収→出発。
ティレニア海側へ
さて、こっからはカンパーニャ、サレルノ県 アペニン山脈南部の西の山道を下っていく感じになる。
今日は、いよいよイタリア半島の西側 ティレニア海側へ抜ける予定だ。
道端に展示されてた戦闘機は、なんと FIAT製 のG91 というモデル。フィアットって戦闘機も作ってたんだ、知らなかった。
イタリア空軍第61航空団(61°Stormo)の練習機らしい。不死鳥のエンブレムがかっけぇ。
相変わらずラヴリーな街街が山の斜面に姿を現すし、
枯れ具合が最高な謎の遺構もランダムに出現してくる。
山を下り切って平地に出ると、いよいよ海岸に近い。
この辺は、なんかアフリカ系の移民がやたら多かったなぁ。
ティレニア海側に出てまず最初にやってきたのは Paestum;パエストゥムという遺跡。
世界遺産ってのもあって、周辺はお土産屋とレストランでけっこう賑やか。
でもシーズンのせいか、人はかなりまばらだった。
遺跡の向かいにあった小さな教会 Chiesa dell’Annunziata; 受胎告知教会
5世紀に遡る古い教会で 中世には荒廃して盗賊のたまり場になっていたのを、地元の司教が改修。直近では20世紀に大規模な修復工事がおわっている。
シンプルな三廊バシリカ。
特徴的なレリーフの掘られた石の祭壇と、ΙΧΘΥΣ; 魚(初期キリスト教徒の隠れシンボル)のモニュメント。
床面には 手を広げたイエスとその右手に聖霊を象徴するハト、そして「パンと魚の奇跡」を表わすシンボルに、カイ・ローの紋章(ギリシア語でキリストを表わすΧριστός の最初の2文字を組み合わせたモノグラム)があしらわれている。
これは改修前の古い教会にあった鐘かな。
では、遺跡の中に入って行っていこう。
Paestum 古代遺跡
パエストゥムの遺跡はしばしば「古代ローマの」遺跡として紹介されてるのを見かけるけど、都市を築いたのは古代ギリシア民族のド―リス人で、その歴史は紀元前600年ごろにまで遡る。遺跡内に建つ3つの巨大な神殿もこれと同時期 紀元前6-5世紀の”ギリシア”神殿で 本土アテネに現存する Temple of Hephaestus; ヘファイストス神殿に次いで世界で最も保存状態のよいギリシア神殿とされてる。
ド―リス人によって築かれた時、この都市の名前は Poseidonia; ポセイドニアだった
Temple of Athena
敷地の一番北側に鎮座する Temple Athena; アテネ神殿
紀元前500年頃の築造。
重厚なド―リス式の柱が正面に6本、側面からは13本並ぶ。
6世紀頃には教会として転用された事があるらしく、そのおかげか、東西のファサードに壁の一部が現存している。
これでも、3つの神殿の中で一番小ぶりだ。
Northern Sanctuary~ The Heroon
アテネ神殿を含むサイトの北側から、通路やアゴラの遺構がつづく。
捕まえたのは、、、巨大なナメクジかな?
The Heroon は、都市の創設者を英雄として称えた記念碑。
The Roman City of Paestum
紀元前400年頃から、中部山岳地帯のサムニウム人から派生した一派 ルカニア人が南下してきて この地を支配、都市の名前は Paistos; パイストスに改められる。ちなみに、ルカニア人やその祖であるサムニウム人は 原インド・ヨーロッパ語族の中でオスク・ウンブリア語族に系統される民族で、後の支配者ローマ人の属するラテン語とは別系統だ。
紀元前273年、当時まだ共和制だったローマが支配を開始、都市の名前が Paestum; パエストゥムになる。
柱廊や庭園、
舗装路や浴場、
珍しい構造のプールや祭壇、
新たな神殿 Temple of Peace跡や Comitium とよばれる集会場、
そして円形闘技場など、約35m×270m の広大な区画に ローマ時代の遺構が広がる。
闘技場への入口 Triumphal Gate; 凱旋門。
The Macellum とよばれる屋根付き市場跡。
Temple of Neptune (Temple of Hera Ⅱ)
敷地の南側に移動してきて見えてきたのが、3つの神殿の中で最大の Temple of Neptune(Temple of Hera Ⅱ); ネプチューン神殿(ヘラ第2神殿) 紀元前460-450年の築造。面積は 24.46m×59.98m にもなる。
正面6×側面14本のド―リス式列柱は、さっきのアテネ神殿より更に太く、基部は直径2.1m 以上ある。
レバノンのバールベックで見た ユピテル神殿のそれに匹敵する太さだ。
柱の高さは約8.88m.
ヘラ第2神殿は内部の保存状態も最も良くて、外側の柱とは別に、内部にさらに2重構造になった柱が2列になって16本建っている。
この複雑さが、近くで見た時の迫力を更に高めている。
ド―リス式の柱に掘られる縦溝は、通常20本とされているらしいけど、この神殿の柱には24本の溝が彫られていて より精緻な印象を与えてるってのも特徴的だ。
この手の遺跡を見る度に毎回議論のネタになるのは、クレーンも何もない時代に数百トンもあるであろうこの巨大な石柱をどうやって積み上げていったんだろう、ってことだけど、
柱の表面をよくみると、おそらく運搬のときに吊り上げ用の石材なんかを嵌め込んでいたであろう窪みが沢山ある。
きっと凄まじい労力だっただろうなぁ。
でも、そのおかげというかなんというか 2,500年もの時間が経った今でも こうして威風堂々と建ちつづける姿に 皆感動させてもらえる。
Temple of Hera Ⅰ
ヘラ第2神殿のすぐ南側に建つのが、3つの神殿の中で最も古い Temple of Hera Ⅰ; ヘラ第1神殿 紀元前550-525年築 だ。
同時にイタリア最古のギリシア建築物でもある。
第2神殿よりわずかに小ぶりだけど、柱は正面9×側面18本と多い。柱の数に奇数が用いられるのは極めて異例らしい。
柱は第2神殿のそれよりわずかに細い印象だけど、基部から上部にかけての豊隆のコントラストが強い。
内部には、わずかに数本の柱が残っていた。
元々は古代ギリシアの守護女神だった Hera; ヘラ への崇拝は ルカニア人征服後も土着信仰として継続され、ローマ人による支配の後も Juno; ユーノーと同化することで存続したんだという。ユーノーといえばさっき話に出たレバノンのユピテル神殿の奉神ユピテルの妻だ。こうして長く旅をしていていいのは、前に訪れた遺跡と 今こうやって訪れた遺跡で 何となく歴史のピースが繋がる楽しみを得られることだろうか。
Paestum Museum
遺跡の入場チケットは、近設の博物館の入場も兼ねてるので せっかくだから入ってみる。
内部は2階建てで 主にパエストゥムの遺跡からの出土品が美しく展示されてる。
例のごとく、一部を紹介したい。
紀元前6世紀 ギリシア神話の怪物ゴルゴンの顔を象ったパネルと 彩色テラコッタの女性胸部像。
紀元前6-5世紀 大理石製の頭部、紀元前4世紀 岩に座る女性像。
紀元前540-530年 青銅製のヒュドリア(水を運ぶ鉢) 取っ手部分のスフィンクスの彫金が魅力的。
紀元前530-520年 青銅製ヒュドリア 取っ手部分の牡羊と女性の彫金が魅惑的。
紀元前540-530年 青銅製ヒュドリア 蛇に手をかけるライオンが柄になってる。
紀元前450-350頃 赤絵式アンフォラ。全ての絵柄に神話由来などのエピソードがある。
紀元前500年 ライオンの頭部を象ったものと、踊る二人の少女が彫られた ヘラ第1神殿の装飾。
紀元前5,000-4,500年頃 新石器時代のテラコッタ製 女性像の臍から下腿まで。
紀元前3,500-2,500年前 銅器時代 Gaudo;ガウド文化とよばれる文明をきづいた人々によってつくられた ガウド陶器。
紀元前750-700年 鉄器時代の天然石ビーズ。
紀元前3世紀頃の墓の壁。ネクロポリスから一度盗まれて 1976年イタリア金融警察によって回収された後修復されて博物館に戻って来たという。メインの場面では死んだ男性(左)が おそらく祖先と思われる高齢の男性(右)と握手を交わしていて その後ろにつづく馬の行列がそえぞれ左右の壁面に描かれている。
遺跡の少し北側を流れる Sele; セレ川から見つかった 紀元前4世紀後半ごろ 青銅製の頭像。
何かしらの神をあらわしてる可能性が高いとのこと。
紀元前6世紀 牡牛の頭で装飾された金のネックレス。
紀元前4世紀末~紀元前3世紀はじめ すごい写実的な女性の頭部像。
紀元前6世紀 青銅製の花瓶に取り付けられていた装飾の一部、スフィンクスやライオン、牡牛や馬など。
紀元前6-4世紀にかけて パエストゥムの工房で数千体つくられたという女性像たち。
“Sacred to Hera, The Oligarchs of Amina” ; アミナのオリガルヒより ヘラに捧げる聖なるもの
という意味の文字が刻まれた 紀元前6世紀の奉納物。
紀元前5世紀後半~4世紀 授乳する女神像と、紀元前520年 テラコッタ製ゼウス像。
ティレニア海沿いを北上
さて、思いのほか見応えのあった遺跡と博物館ですっかり時間を食ってしまった。
ようやく見えたティレニア海に沿って、急ぎ足で北上していく。
実は、以前ブルガリア編の Moto Camp Bulgaria の記事で触れた Bunk-A-Biker というサイトを始めて使ってみた。
イタリアの予定ルート上だと ちょうど Pompei; ポンペイに登録してるライダーがいたから、連絡してみたところ快くホストを請け負ってくれたのだ。彼女の名前は Adele. この後、Adeleのおかげでイタリア旅は更に素晴らしいものになっていく。
ということで、この日はだらだら野営してないで ポンペイまで向かう!
海沿いの小さな街を、どんどん通り過ぎていく。
サレルノ県の県都 Salerno; サレルノ
南イタリアでは最大規模の港湾都市ということもあって、港には大量のコンテナが積みあがってた。
サレルノは、日本の岩手県遠野市と姉妹都市だったけど イタリア側の連絡無精をきっかけに今年(2025年)3月に日本側から姉妹都市解消の通達をしている。
やばい、暗くなる。
Amalfi 海岸道路
SS163号線の サレルノ以降 Sorrento;ソレント半島南部までの区画は いわゆる Amalfi Coast; アマルフィ沿岸道路とよばれて、海に面した断崖の上を行く「世界一美しい海岸道路」と称される。
まぁ個人的にはもっと美しい海岸道路はいくらでもあると思うけど、パステルカラーの建物がティレニア海をバックに絶壁の海岸に建ち並ぶ様を見れば その名声にも納得だ。
Maiori; マイオーリの街 Torre Narmanna.
ノルマン支配そしてその後の神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン家)を経て アンジュー家の支配下となっていた13世紀の後半ごろ、
当時海賊行為をしていたイスラム系 サラセン人からの防衛目的でつくられた。今では高級シーフードレストランとして改装されてる笑
ナポリ県へと県境をまたいで、ソレント半島の南側までやってきた。
この辺りは通る街ほとんど全てが美しい街で、それぞれの街に1日ずつ割いたっていいんじゃないかというレベルだ。
けど、当然そんなことはシェンゲン的にも無理だし どっちかというと「普通の旅行者」として 友人や家族と来た方が楽しめる場所だから 今回は華麗にスルーしていく。
道の先に Collegiata di Santa Maria Maddalena; サンタ・マリア・マッダレーナ教会がみえる。
Amalfi; アマルフィのほんのわずかに手前にある Atrani; アトラーニの街並み。
Amalfi
そしてもう暗くなるかってところでようやく アマルフィに着いた。
もうポンペイはすぐ射程内にはいったから、少しだけ街を観光してみよう。言わずもがな、アマルフィは世界遺産アマルフィ海岸の中心都市なので 本当は「ちょっと散歩」だけじゃなくて がっつり観光するのが吉。
アマルフィは、ノルマン人(オートヴィル家)がやってくる以前、9~11世紀にかけてはほぼ独立して強権をふるう海洋都市国家だったらしい。
市街にはいってすぐ右手には Duomo di Amarfi; アマルフィ大聖堂が建っている。9世紀ごろに建てられた古い教会だけど、現在のファサードは1891年につくられたもの。ポルチコを構成する尖塔アーチは 黒と薄い赤色の石が交互に積み重ねられる Ablaq; アブラークという技法が用いられている。これは、元々海洋国家としてイスラム文明と独自に交易を発展させていたアマルフィにちなんで、19世紀の製作の際にそれを反映させたということらしい。鐘楼の頂上には特徴的な彩色の塔が5つあって、これはマジョルカ焼のタイルで装飾されている。
中に入ろうと思ったけど、すでに閉館!残念!
狭い路地が入り組むイタリアらしい町並み。
いつかまた、天気のいい昼間に 普通の観光客として再来したいなぁ。
そう、アマルフィといえばレモン。1,000年以上もアマルフィ海岸で栽培されてるという歴史があって、日本でみるレモンよりも一回りでかくて皮はデコポンみたいにボコボコしてる。香りは強いけど酸味はまろやかで甘く、これまた世界一のレモンなんだそうな。
リモンチェッロというリキュールをはじめ、シロップ、ジャム と、色んな”レモングッズ”が並んでいて楽しい。
これも、再来した時の爆買いリストだな。
Pompei へ
すっかり暗くなってしまった。
さっき見たアトラーニがあまりにも好きだったから、少し戻って街灯の点いた街並みも見ておく。
さて、こっからは完全にナイトランだ。ソレント半島の付け根あたりをまわりこむ形で徐々に北上していく。
やがて、山道の向こうに ポンペイの街の光が見える。
山道から市街へと下って行って、
ポンペイ市内に到着!
Santuario della Beata Vergine Maria del Santo Rosario di Pompei; ロザリオの聖母聖堂 が開いてたので、
中に入ってみる。
教会内、中央身廊と主祭壇。
以前の記事で “石肌の剥きだしたロマネスク様式の方が好きだ” とか言ったけど、暗い山道を走って来た後だと この黄金に輝く教会内のなんともいえない荘厳な包容感が じわーーーっと安堵感を与えてくれる。
メインドーム。
1901年に完成した後、30年代に改修されて 三廊式のラテン十字バシリカに拡張された。
1944年のヴェスヴィオ火山の噴火と、ナチスの侵攻を耐え抜いて今に至る。
多色大理石、オニキス、ラピスラズリ、金箔を贅沢にあしらった内装がフレスコ画を装飾していて、
まさにネオ・ルネッサンス様式の傑作といわれる重厚な雰囲気だ。
アマルフィ大聖堂には入れなかったけど、その分ポンペイの聖母マリア聖堂の中を見る事ができてよかった。
Adele, Emiliano 夫妻に迎えられて
教会を後にして、Adeleが送ってくれた住所に向かい、ようやく Adele と旦那さんの Emiliano に会う事ができた!二人ともDucati乗りである。野営つづきのきちゃない管理人を迎え入れてくれて、本当に感謝。
夕飯とデザートをご馳走になって、用意してくれた部屋で就寝。
思えば、最近はずっとテント泊が続いてたから 久しぶりにベッドで寝られて超快眠。重ねて本当に感謝。
つづく