こんにちは、世界放浪2輪旅中の管理人です。
プロヴディヴの街を去って、北西に向かい 博物館都市に指定された小さな村を経て バルカン山脈へと向かいます。
ここまでのルート
プロヴディヴから北西へ
ブルガリアの国土は長方形の隅を少し引き延ばしたような形をしていて、黒海沿岸から ルーマニア・セルビア・北マケドニア・トルコ そしてギリシアと国境を接してる。そのあちらこちらに色んなスポットが点在してるから、うまくそれらを縫っていくのはかなり難しい。
ブルガリアに入国したことでシェンゲン・ビザ(90日間)のカウントがスタートするから 今までのように1国を心行くまで満喫しながら走ることはどうしてもできない。限られた時間の中で 訪れる場所と諦める場所を選びながら進んでいくしかない。
ブルガリア田舎の、なんてことない民家。
こういう”なんてことない”ものの記録を撮るのも、バイク旅の醍醐味だ。
ブルガリアの国土中央を東西に走るバルカン山脈の、ちょうど南にあたるこの辺は 広大な平野部といった感じで 大陸性気候と地中海性気候の混ざったような温暖な気象条件から 豊かな穀倉地帯が広がってる。
廃墟=社会主義なんて短絡的に結びつけるわけではないけど、
こういうアバンダンな建物を見ると 東欧革命以前の雰囲気の名残だぁ~ なんて喜んでしまう。
決して観光ブックに載る事はない、ただの放棄された家とかが なんだかんだ一番テンションあがったりするんだよ。
いや、一番ってのは言い過ぎか。
素通りしてしまいそうな地方正教会も、よくみると ビザンティン風な鐘楼ドームの下部にトルコ北西部で見た列柱バルコニーのミナレットを連想するような構造があって、ブルガリア地方伝統の素焼き瓦の屋根に列柱+アーチのナルテックス と、色んな要素が組み合わさってるのがわかる。
10月の初旬、少しだけ葉っぱが紅葉しはじめてきた。
湧き水が出る岩に書かれたブルガリア語を翻訳にかけると 「旅人よ止まれ。人生の終わりと来世!」とのこと。はて🤔
平野部からだんだんと標高が上がっていって、バルカン山脈南の麓にあたるスレドナ・ゴラ山地の渓谷地帯にはいってきた。
標高は約1,000mをやや越える コプリフシティツァ渓谷だ。
Копривщица; コプリフシティツァの街
Topolnitsa; トポルニツァ川と その向こうに赤い瓦屋根の集落が見える。Копривщица; コプリフシティツァの街に着いた。
村全体が博物館都市として指定されていて、なんとも郷愁を誘う古い家屋が連なってる。
瓦+木造の部分だけ切り取ってみると 少し日本の伝統家屋にも似ている。
テネレを停めて、徒歩で街を歩き回ってみよう。
1837年 St.Cyril and Methodius School.
Valko Chalakov; ヴァルコ・チャラコフという人の寄付で建てらた学校が、今ではミュージアムになっている。
プロヴディヴ編でも触れた通り、露土戦争から1878年のブルガリア解放に至るまでのブルガリア民族復興運動が盛んになっていた時期に建てられた いわゆる「ブルガリア・ルネサンス」のリバイバル建築だけど、1階部分が石づくりで2階部分に張り出しの木造がのる典型的なパターンとは少し違う。鮮やかなパステルカラーに彩色された外壁と、木造の階段・列柱、窓枠なんかが共通してる。
家みたいな形をした煙突がかわいい。
フリーマーケットを眺めつつ、
渋い路地を歩いていく。
突如あらわれる綺麗に保全されたこの類の建物のほとんどは「国家的重要建造物」に指定されてるらしい。
渋すぎる。まるで日本の忘れ去られた山村に迷い込んだようだ。
民家の門も、なんだか城郭の出入り口みたいだ。
少しだけ北側に移動してくると、お土産屋とかカフェもでてきて 少し賑やかな雰囲気になる。
もう1年前に見たこの薪も、去年の冬に全部燃え尽きたんだろうな。
北側のスクエアに鎮座するこのモニュメントは、”四月蜂起記念碑”.
14世紀からつづいた約500年におよぶオスマン帝国支配に終止符を打つきっかけとなった、1876年のブルガリア人蜂起は ここコプリフシティツァの街からはじまったのだ。武装蜂起した住民は一時的にオスマン支配を排除したものの、すぐに オスマン帝国側の激しい鎮圧によって多くが殺害され、近隣村落を含めると2万人ちかくの犠牲者が出たとも言われている。
この時の犠牲者を追悼するのが、このモニュメントなのだ。
遠い東アジアの島国からやってきた旅人が、こうしてこのモニュメントを訪れることで 150年前この地で 民族の自由と独立のために闘いを決意した人々のことに思いを馳せることができるんだなと思うと、こういう記念碑ってのは確かに意義深いのかもしれない。
当時の住民蜂起自体は失敗に終わるものの、その後の国際世論を強く動かしたことが後の露土戦争のロシア参戦・ひいてはサンステファノ条約 そしてブルガリアの独立へとつながっていく。
どんなに強い支配の元でも、民意がひとつに束なって強い軸を成す時 時には流血を伴った犠牲のもとでその意志が成就される。
支配する側が最も恐れるこの「結束」を削ぐために一番効果的なのは 団結を根本から瓦解させる分断だろう。
いまの日本をみると、過剰なリベラリズムと弱者保護を掲げる綺麗事団体と、自虐史観を美徳としたどこにルーツをもつか謎な戦後利権の有象無象、西側諸国として歩むことで育まれた骨抜き教室の産物たるアイデンティティの欠落した大衆、まさにみじん切りのように分断された社会で 「まともな日本人」ならすんなりと意思決定できるはずの保守的な議論がまともに進まない。
村を流れる川には、いくつもの古い石橋が架かってる。
3枚目の、中央に尖った構造物がある橋は Kalachev’s Bridge, またの名を “First Rifle Bridge” といわれている。
四月蜂起の最初の発砲がこの橋から放たれたことに由来するらしい。Georgi Tihanek; ゲオルギ・ティハネクという人物がこの最初の射撃を行った人物らしい。
たぶん村で一番華やかな広場
のお土産屋さん、
ここでしか買えなそうなものが一杯で、物欲を抹殺しながら店を出る。
そこから、少し西側に坂道を上っていく。
丘の上に、墓地への入口があった。
ブルガリアの詩人 Dimcho Debelyanov の墓には、墓石を彫刻した Ivan Lazarovの母親が彫られている。
敷地の中央には、鮮やかなブルーの壁が輝く Assumption of Virgin Mary Church が建っている。
雑然とした庭と、
入口の碑文には1817年建立とある。
青×白のきれいな鐘楼は、1896年に再建されたもの。
先述の四月蜂起では、この鐘楼の鳴らす鐘の音が蜂起の合図になったといわれている。
三廊式のバシリカ。重厚な石柱を外壁と同じ鮮青色のアーチが繋ぐ。
1821年に彫られた木彫りのイコノスタシスと、1830年代に描かれたアイコン。
ブルガリア正教会のみどころは、なんといってもイコノスタシスを構成する精巧な木工!
教会を出て、
また路地に戻る。
味わい深い瓦と石壁の先に、
Todor Kableshkov’s House; トドル・カブレシュコフの家が建つ。
コプリフシティツァの街に点在する多くの歴史家屋は入場料がかかるけど、ここは無料で入ることができた。
この家が建てられたのは1845年。
当時の生活が再現された家の内部。
トドル・カブレシュコフは四月蜂起の指導者のひとりで、蜂起鎮圧後オスマン当局に捕らえられ、拷問の上 刑務所で自殺している。
拷問に屈せず、最後まで仲間の情報を渡さなかったという。
25歳の夭折だった。
燃え盛るような民族再興の信念のもと蜂起を指導した結果、仲間は殺され 町は焼かれ 祖国も未だ自由にならず、
屈辱的な拷問の末 最期に首を吊る時の 若き青年革命家の想いはどんなものだっただろうか。
右手にピストルを握ったトドルの像が、そんな事を考えさせるのであった。
1854年 Lyutov’s House.
1869年 Hadzhi Nencho Palaveev Cultural Center.
1895年 Lyuben Karavelov High School.
一度テネレの元に戻って、今度は少し村の東側に向かってみる。
走るのが楽し過ぎるこの雰囲気の路地の先に、
1831年 Georgi Benkovski’s House が建つ。
ゲオルギは、先のトドルの同志 四月蜂起を指導した中心的人物のひとりで、鎮圧後オスマン軍によって射殺された。
丘の頂上には、そんなゲオルギが今も馬を駆っている。
1840年 Dorosiev’s House.
Lyuben and Petko Karavelov’s House.
Palaveev’s House.
Dimcho Debelyanov’s House.
たまたま回収作業用の車(?)の出入り門が開いて写真を撮ることができた Oslekov’s House.
とその玄関道に並ぶ骨董品。
とまぁ概ね街を見回ったところで、
同じく復興様式の家屋をリノベーションしたであろうレストランで腹ごしらえをして、
次ぎの目的地に向かう。
つづく