【Republic of Turkey episode 55】エディルネ徘徊録

こんにちは、世界放浪2輪旅中の管理人です。

トルコ最後の街、エディルネの街を徘徊した時の写真を また貼っていこうと思います。

エディルネの木造家屋

宿の近くから徘徊スタート、路肩に放置された謎の馬車から 期待が高まる。

前の記事で触れた通り、エディルネ=旧アドリアノープルは古代ローマに発達した都市だけど 1362年にムラト1世がブルサから遷都してから、1453年にメフメト2世によるコンスタンティノープル陥落までの間 オスマン帝国の首都として発展した。
そんなわけで、街を歩き回っているとこんなようなオスマン時代にまで遡る古い木造家屋を沢山見ることができる。

家の構造には色んなバリエーションがあるけど、基礎部分が石でできていて、その上に木造の家屋がのっているってな感じが一般的。
2階部分の張り出したバルコニーも特徴的。

バルコニーの一部だったり、庇の一部には Edirnekârî; エディルネカリ とよばれる伝統的な木彫が施されているのも注目だ。

Ali Paşa Çarşısı; アリ・パシャ・バザール

1565年にまで歴史を遡る屋根付きアーケードのアリパシャ・バザール。

バザールを東側に抜けて、

北側へと歩いていく。

露店には地元のおばちゃん手作りの刺繍が並ぶ。

味わい深い商店街を貫いて、

馬車が行きかうアタテュルク通りの北側に行ってみる。

今では一階部分に店舗を構えたホテルとして機能するオスマン時代の歴史建造物のすぐ側に建つ、

これが マケドニアの塔か!! と思ったら、残念修復中だった・・・
これが、古代ローマ時代からエディルネに残る唯一の構造物だったんだが、、、まぁ仕方ない。いつか修復後の姿を見に戻ってこよう(?)

Üç Şerefeli Mosque

そんな絶賛修復中だったマケドニアの塔の目の前に聳える壮大なモスクが、 Üç Şerefeli Mosque.
ムラト2世の治世、1438年~47年に建設された。
長方形の水平断をもった2つの建物が合わさったような形をしていて、左(北西)が中庭 右(南東)が礼拝室になってる。
ブルサで見たウル・ジャーミィに代表されるようなセルジューク様式を残した初期オスマン様式と、イスタンブールのブルーモスクやスレイマニエ・モスクに代表されるような古典オスマン様式の、ちょうど過渡期的な存在なのだ。
にも関わらず、建築家は不明らしい。

モスクには4本のミナレットが 中庭の4隅に建っていて、その内南側のミナレットには3つの小さなバルコニーがあるのが分かる。
これは Üç Şerefeli というこのモスクの名前の由来になっていて、高さは67mと巨大だ。
西側のミナレットには これも特徴的な螺旋状の装飾がほどこされていた。

北側と東側のミナレット。

南西の壁にあいた入口から中庭へ、

美しい装飾の巨大な木製扉。

中庭。

中庭の四隅は柱廊で囲まれていて、赤と白の石が交互に組み合わされたアーチで視覚的な効果が強い。

そしてそのアーチの間にある多数のドーム下面には、それぞれ違ったデザインの美しい装飾が描かれている。

回廊の壁に埋め込まれた碧いタイル。

中庭を、南西から北東側に眺める。

メタルバンドで補強された石柱と、

ムカルナス装飾を伴った柱頭。

中庭の南東側回廊の中央に位置する礼拝室への入口。

アラビア語の碑文と、

その上には

下から覗くとまるで睨み返されているような独特なデザインのムカルナス。

門の左右にもカリグラフィーとムカルナスを伴った小さな壁龕がある。

礼拝室内部は、ややオスマン古典様式の雰囲気に近い。

メインドーム下面。
エディルネの敬虔なジモティーたちが、ちょうどお昼のお祈りをしているところだった。

ミフラーブの脇にある精緻なデザインとステンドグラスも印象的。

モスクを出たところの階段できゃわいいにゃんころを発見、小1時間散策を中断せざるを得ない猫トラップにかかったところで、次の場所へ向かう。

Eski Cami

アタテュルク通りを少しだけ東側に歩いて、ランダバウトのちょうど南側に建っているのが Eski Caimi; オールド・モスク。
メフメト1世の治世 1414年に完成した。先の3-balcony モスクと対比してオールド・モスクといわれる。

南西側ゲートの碑文と、

入口前の回廊壁面に描かれた大きなアラビア文字。
左側は الله; アッラー  右側は محمد; ムハンマド  をそれぞれあらわす。

礼拝室への入口を通って、

モスク内へ。

無骨なシャンデリアと

全部で9つあるドームの下面。

内観はこんな感じで、どちらかというと初期オスマン様式のような多重列柱構造になっているものの、単純な列柱ではなくて それぞれがアーチで繋がっている。

それぞれ柱の基部にはアラビア文字がカリグラフィーで描かれていて、それもまたこのモスクをユニークなものにしている。

ミフラーブと

ミンバル。

ミフラーブの

右側を覗き込むと、そこにはなにやら小さな石が埋め込まれている。

この黒い石の破片は Rûkn-ü Yemânî; ルクン・エ・イェマーニィと呼ばれていて、伝承では カーバ神殿から落ちた黒石の破片,あるいはイエメン角の一部で、当時カーバを管理していた者が夢で神の啓示を受けてこの地まで運ばれてきたんだとか。ただ、伝承的な性格が強くて、これが本当にカーバの黒石、あるいは神殿の一部だったのか、真正性は無い。
そういえば、ファーティハを暗唱してメッカ入りしたのはもう3年近く前の事だ。
あの時は、黒石を遠くから見ることはできたけど、触ることはできなかったから もしこれが本当に黒石の一部なのであれば その時の伏線を回収できた気がする。

ミンバルに施された これでもか!というほどに精密な木彫。

モスク内の高床式になった専用空間は Mahfil; マフフィルといって スルタンや高官が一般の参列者と区別して礼拝をおこなうためのもの。

モスクを出ると、今度は猫じゃなくて YAMAHA LOVE!! なおっさんがいた。

Selimiye Mosque

オールド・モスクのある交差点から、東側に広がる広大な敷地に目をやると そこにはオスマン帝国史上最高の建築家といわれる Mimar Sinan; ミマル・シナンをして、自信の最高傑作といわしめる Selimiye Mosque; セリミエ・モスクが建っている。
セリム2世の治世、1568~74年に建設された。

管理人が訪れた時、セリミエ・モスクは大規模な修復作業中だった。

礼拝者のためのスペースがわずかに開放されているだけ というような感じで、内部の多くは見ることができなかった。
これもまた、いつか完成した後に再訪する口実になるだろうか。

Arasta Çarşısı; アラスタ・バザール

セリミエ・モスクのすぐ脇には これもまたアーケードで囲まれた アラスタ・バザールがある。

当時は、このバザールの収入が モスク関連施設の維持につかわれていたらしい。

どうやら石鹸が特産品のようで、特にこのフルーツの形をした石鹸がかわいらしい。
昔いろんな形の消しゴムがあったのを思い出した。

普通の形の固形石鹸も沢山ある。
どれも香りが違っていておもしろい。

 

そんな感じでバザールを見回っていると、ひとりのおっちゃんが声をかけてきて、

バザールの路地奥にある喫茶店に誘ってくれた。

オスマン帝国時代からつづく古い喫茶店なんだと。

気の良い店主がご馳走してくれたチャイ。

店内は当時の調度品や雑貨で飾られていて レトロないい雰囲気。

壁には様々な写真やトロフィー、肖像画なんかが飾られていたけど 中でも印象的だったのは Yağlı güreş; ヤールギュレシとよばれるトルコの伝統的なオイルレスリングの様子を移した写真だ。

エディルネでは毎年、このオイルレスリングの全国大会が行われるらしい。

ご当地グルメ  Tava Ciğer; タヴァ・ジエル

エディルネには牛レバーを揚げた名物料理があるというのを聞いていたので、せっかくだから食べてみようということでやってきた、セリミエ・モスク近くのレストラン。

タヴァ・ジエルというこの料理は、本当にレバーを揚げただけのシンプルなもので 見た目の通りかなりパンチのある味だった。
個人的には、もつ系はあんまり好きじゃないからハマらなかったけど、決してまずくはない。
臓物系が好きな人なら、けっこう好きなのかもしれない。
管理人は、付け合わせで出て来る揚げトウガラシの方が好きだった・・・

Grand Synagogue of Edirne

ところかわって、今度は街の南側に向かって歩いていくと、パステルイエローな外壁が特徴的なシナゴークが建っている。

19世紀末まで、エディルネには13のシナゴーグがあったらしいけど、1905年の大火事で全て焼失した。
それら全てを包括する形で1909年に建てられたのがこのシナゴーグだ。

80年代にほとんどのユダヤ人が北米やイスラエルに移住して以降放棄され廃墟化していたらしい。

95年にトルコの財団の管轄下に入った後、5年間におよぶ修復によって2015年に今の姿に復元されて公開されている。
普段シナゴーグはほとんど入ることができない。こうやって予約なしでサクっと教会みたいに入れるのはレアケースだ。

ミフラーブのような見た目の Aron ha-Kodesh; アロン・ハ・コデッシュと、その上に輝くダビデの星。

Tunca Bridge と Meriç Bridge

シナゴーグから更に南側へと歩いていっって、

線路を渡ると、

まずは小さな支流である Tunca; トゥンジャ川にさしかかる。ここには 1615年に完成したオスマン帝国時代の古い橋が架かる。

橋の中央にある小さな部屋。

中洲部分にあたる場所には廃墟が目立ち、なんだか廃れた印象だった。

更に歩いていくと、もっと川幅の広い Meriç; メリチ川と、そこに架かるメリチ橋がある。
こっちが完成したのは1843年と、トゥンジャ橋よりも200年も新しい。

橋中央の塔と、そこから見える川畔のレストラン。

ってなわけで、旧ハドリアノポリスの2024年の姿を垣間見る感じのレポートでした。

つづく

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