どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。
長かったイスタンブールでの滞在、そしてコンヤへの旅を終えて
ようやくヨーロッパへの旅を再開します。イスタンブールから西へと走り、途中南下してガリポリ半島という場所へと向かいます。
ここまでのルート
ガリポリの戦い 殉教者記念碑
道中でなぜかジェット機が道脇に展示されてた。
こうやってみると、バカでかいフル積載のテネレも米粒のように小さく感じる。
少し沈没した後、再びフルロードで旅を再開すると、少しまた新鮮な気持ちに戻る。
と同時に、色々と感覚を研ぎ直さないとならない。
そう、たとえば
ゆっくりと道を横断するカメを轢かないようにするとか。
ガリポリ半島の付け根から南下していくと、アナトリア北西端とガリポリ半島を繋ぐ 1915 Çanakkale Bridgeがみえてきた。
メインスパン(2本の柱間の長さ)2,023m は「世界最長の吊り橋」とされていて、2022年に開通したらしい。それまでは日本の明石海峡大橋が世界最長だったんだとか。とりあえず今は左手にスルーして、そのまま南下をつづける。
アナトリア側が簡単に目視できるダーダネルス海峡。
というわけで、ガリポリ半島のほぼほぼ南端にある、チャナッカレ殉教者記念碑にやってきた。
1次大戦時 連合国側が対オスマン帝国に計画した上陸作戦がガリポリの戦いで、ガリポリ半島占領を契機にコンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させるのが目的だった。
当時末期状態だったオスマン帝国を甘く見ていたことが原因とされる杜撰な計画によって、最終的に連合国側は敗退。
オスマン帝国側で6~8万人、連合国軍側で5~6万人の戦死者・戦中病死者を出すも オスマン帝国にとっては列強を退ける大勝利となった。
そんなガリポリの戦いに参加した多くのトルコ兵の功績を記念して、幾度かの財政難による中断を経て、1960年に公開されたのが この4本の重厚な角柱で構成された記念碑だ。
角柱壁面には、手作業で仕上げられたレリーフ。
すっかり日が沈んできてしまった。
この時、ガリポリの半島から見た夕日は本当に綺麗だった。
記念碑の脇に展示されている、当時実際に使われていた砲弾やキャノン。
記念碑の裏手には 600人のトルコ兵が眠る 戦没者墓地が広がる。
ガリポリの戦いには勝利したものの、同盟国側という立場・そして帝国として既に弱体化の一途にあったことから、オスマン帝国は敗戦国として列強に解体されかかる。
ガリポリの戦いの時点では、「一、オスマン帝国の将校」として英雄となったムスタファ・ケマルだけど、 連合国側の排除と同時に、既に高まっていた”反帝政とナショナリズム”の胎動を押し広げて 最終的に帝政の打倒と共和国の樹立、そしてそれを列強に認めさせ独立を勝ち取るという内部破壊→革命までも成し遂げる。まさに偉業中の偉業だ。
トルコをもう3カ月近く走って、色んな人と話をしていると 必ずしも全員がムスタファ・ケマルの成した改革を快く思っているわけではないのもまた事実。だけど、それは「トルコ民族」というアイデンティティに根差したスローガンと、「トルコ民族」という言葉が持つ民族的曖昧さが常にジレンマを引き起こすが故のことなのかもしれない。
すっかり暗くなってしまった後、野営場所を探す。
意外にも道脇はしっかり整備されて(しまって)いて、なかなか見つからないので ちょっとした駐車場のような場所でテントを張るのであった。
つづく