どうもこんつくは、グレートエスケープ中の管理人です。
Muhammet, Mustafa の3人との小旅行から帰ってからは Muhammet 宅でダラダラしつつ 天気の良い日を見計らってはテネレでイスタンブールの中心地まで走って観光するという贅沢な日々を過ごしていた。宿泊費がかからないからってついダラつきたくなる自分のけつを蹴り上げて、この日はヨーロッパ側のFatih; ファティフ というエリアにやってきた。
Kariye Mosque
イスタンブールの中心は交通規制もあったり、狭く入り組んだ路地も多いから デカいテネレだと困ることもけっこうある。
そんななかやってきた Kariye Mosque; カリーイェ・モスク。
入場料がいくらだったかもう忘れたけど、けっこう高かった。
イスタンブールだと、なんでもかんでも入場してたら金があっという間に飛んでいくので よく考えないとならないけど、
カリーイェ・モスクは絶対に入場すべきと自信をもっておすすめできる特異かつ美しいモスクだった。
一足踏み入れると、天井・壁面にびっしりと施されたモザイク画に圧倒される。
現在は”モスク”だけど、元々はビザンツ帝国時代の教会(Chora Church; コーラ聖堂)で 4世紀にまでその起源をさかのぼる。
14世紀初頭 当時ビザンツ帝国の貴族 Theodore Metochites; テオドロス・メトコキテス の後援によって大規模な装飾が施された。
現在でも見る事のできるこの美しいモザイクやフレスコ画はほぼ全て14世紀当時のオリジナルで、修復されているとはいえ600年以上前のビザンティン美術の傑作が極めて良い保存状態で残されている。
1453年、いわゆるイスタンブール陥落の後は この地もオスマン帝国の支配下となるわけだけど、
イスタンブール(旧コンスタンティノープル)には他にも多くの教会があったためか、優先順位の問題なのか、それから50年以上経った16世紀初頭になってから当時の宰相によってモスクへと改築された。
礼拝スペース。
ミンバルの横の柱の一面には黄金の衣をまとったジーザスを抱くマリア像が。
そんな空間で、普通にサラートが行われている。
本来、ムスリムからすればキリスト教とユダヤ教は同じ”啓典の民”で、一定の尊重や共存が説かれている。
いまこうしてこのフレスコ画やモザイクを見る事ができるのも、オスマン帝国時代にこれらを破壊せず 漆喰で覆うなどの措置がとられたおかげで、その背景にはそういった宗教的・教義的寛容があったからといわれている。
20世紀に入ってからの研究や修復作業によって 数百年の時を越えて再発見されたビザンティン美術の傑作は、イスタンブールにある数ある美術館やモスクのなかでもまったく引けを取らないどころか 上位の必見ポイントかもしれない。
Fethiye Mosque
ファティフ・エリアの道を進んで、
すぐ近くのFethiye Mosque; フェティエ・モスクにやってきた。
ミナレット後方には、やっぱりどことなく東方教会の雰囲気を残したドームが連なる。
もともとは11―12世紀頃に建てられたと考えられている Pammakaristos ; パマカリストス教会 で、やっぱりイスタンブール陥落後 一度東方正教会の総主教座を経て1591年にモスクへと転用されたのだ。
最初扉は閉まっていたのだけど、しばらく近くをうろうろしていたらおっさんが鍵を開けてくれた。
礼拝部分はどちらかというとシンプルなモスクのそれで、誰もいなくてしばらく中でゆっくりできた。
附属の博物館は、先のコーラ聖堂やアヤソフィアに次いでモザイク・フレスコ画を所蔵しているらしいけど この時は改修閉鎖されていた。
Virgin Mary Greek Orthodox Church
すぐ近くの路地を走っていると、遠くから見えた荘厳な雰囲気の建物は、
Virgin Mary Greek Orthodox Church.
1281年頃にMaria Palaiologina; マリア・パレオロギナによって再建され、彼女がモンゴル帝国に嫁いだ経緯があることから、通称 Saint Mary of the Mongols とも呼ばれるらしい。
赤茶色の重厚な煉瓦が積みあがって構築される外観は圧巻だけど、近づくと全景が視野に収まらない。
この教会の特筆すべきは、イスタンブール陥落後 唯一モスク転用を免れた教会であること。
これには色々と興味深い背景があって、一般的には宗教的寛容性の象徴として”ひとつだけ”残す教会の対象になったらしい。
メフメト2世は教会維持勅許(ファルマン)を発令して、コンスタンティノープルに多数いた正教会の共同体の安定化を図ったということになる。
アヤソフィアや先のコーラ聖堂、コンスタンティノープルにあった他の教会に比して この教会は修道女の教会であり、やや王室や主教座から距離があったとか、先のパレオロギナ家が オスマン帝国制服後も便宜を図らい保護の力が働いたとか、まぁ諸説あるけれど イスタンブールにて唯一教会でありつづけた教会 という目でみるとまた面白い。
Balat エリア徘徊 と、ブルガリア鉄教会
正教会が建つFener の丘から海側におりて Balat の繁華なエリアにやってきた。
カラフルなパステルカラーの古い建物が建ち並ぶ。2階部分がバルコニーのように張り出しているのが特徴で これはいままでもオスマン時代の再建建造物にはよくみられた。
綺麗にレストアされたっぽい FJ40系列の古いランクルがあった。良いなぁ古いランクル。
観光客も多くて、綺麗なカフェやレストランが古めかしい通り沿いの1階部分に建ち並ぶ。
オスマン帝国時代はユダヤ人やギリシア人、アルメニア人も共に暮らしていた多文化共存地区だったらしい。
旧車の愛好家でも多いんかな。
バラット地区の海沿いの道を走っているとひときわ目立つ、Saint Stephen’s Orthodox Church.
1893-98年、ウィーンで鋳造された500トンもの鉄材をつかって建設されたこと、そしてブルガリア正教会であることから 別名 Bulgarian Iron Church; ブルガリアの鉄教会 とも呼ばれる。
19世紀のイスタンブールでは、陥落後長らく総主教座が置かれていたギリシア正教会への従属からの解放・独立を望んだブルガリア正教会の勢いが盛んになっていた。そして1870年、ロシアが後援もあって 最終的にはFerman; ファルマン(スルタンの勅令)によってブルガリア正教の、ギリシャ正教総主教庁からの宗教的分離を認めるという出来事があった。このブルガリア正教の独立の象徴として建てられたのがこの教会というわけなのだ。鐘楼にYaroslavl’: ヤロスラブリ産の鐘がつかわれてたりするのも、ロシア後援のしるしなのかもしれない。
正面ファサードにはプロビデンスの目のシンボルが黄金に輝いていた。
イスタンブールのヨーロッパ側を大きく2つの半島に分ける Golden Horn; 金角湾沿いの道は走っていて気持ちいい。
こちら側には色んな形や色の建物がひしめきあってる。
Suleymaniye Mosque
ファティフ地区のやや南寄りに移動してきた。
ここには Suleymaniye Mosque; スレイマニエ・モスク とそのコンプレックスが丘の上にある。
丘を上っていく途中には ローカルな市場が広がる。ここは雰囲気が一気にローカルな感じで、トルコ東部の地方都市にきたような感覚になるし、商人たちはアラブ系が多い。
廃屋ちっくな建物も多く、なんとなく陰鬱なムードに包まれた路地。
嫌いじゃないわぁ~。
19-20世紀につくられたオスマン帝国時代の木造家屋が沢山みられる。
基本は基礎部分が石造りないし煉瓦造りで、その上に木造の多階層という構造をしている。
北ヨーロッパとかだと、日照時間が短いことから効率的な採光という目的で張り出し窓= Oriel Window がみられるけど、
イスタンブールのそれは全然目的が違くて、むしろ効率的な掃気による廃熱効果だったり、狭い居住空間の拡張手段だったり、あるいは路地に日陰をつくる意味もあったりしたらしい。
と、そんなわけで丘の頂上に着くと姿を現した Suleymaniye Mosque; スレイマニエ・モスク.
でかすぎてGoProの広角で遠くから撮ってようやく全体がおさまる。
10代スルタン Suleiman; スレイマン1世の命でオスマン帝国史上最高の建築家として名高い Mimar Sinan; ミマル・シナンによって1550年から7年かけて築造された。
北西側のファサード。
モスクの北西にはスクエア形に中庭が隣接していて、それを4隅にミナレットをたたえた壁が囲んでいる。
中庭から、モスクを臨む。
中庭を取り囲む回廊と列柱。
ポータル上部、スルス体のアラビア語で建立碑文がある。
モスク入口と、
上部ムカルナスの装飾や碑文。
ちょうど雨が降って来たから急いで中に入る。
直径約27m 、高さは地上53mにもなるというメインドーム下に広がる礼拝空間はまさに圧巻の抱擁感と美しさ。
そこまで絢爛な装飾はされず、落ち着いた意匠に囲まれて 思わずしばらく座り込んでぼーっとするのであった。
モスク内で時間を過ごして、外に出るといつの間にか外は暗くなっていて、雨もやんでいた。
夜になって美しくライトアップされるスレイマニ・モスクもまた格別の美しさだった。
ほとんどの店が店じまいを始める市場を眺めつつ、
また丘を下っていく。
ってなわけで、ファティフ地区周辺をぶらぶらした徘徊記でした。
つづく
おまけ
Muhammet 宅からの眺め。
つづく