どうもこんつくは、、グレートエスケープ中の管理人です。
トラブゾンから南東方向へと南下して、スメラ修道院を経てエルズルム県の県都でもある 歴史都市Erzurumをまわってみます。
Africa Twin from Germany
朝、同じ宿にアフリカツインを発見。
ドイツからのライダー Christian と、いろいろ情報を交換した。というか一方的に情報をもらった。
左フロントフォークトップに見えるブルーアルマイトの構造物がかっこいい。
これはShowaのEERA(電子サス)を構成するソレノイドバルブで、右フォークトップにはストロークセンサーが装着されている。ボタン操作で車高が変更できる感覚も楽しい!
跨らせてもらってエンジンをかけてみる。
同じ2気筒とはいえ、テネレとはまじで全く違うフィーリングで改めて、T7のCP2エンジンはけっこう荒々しい味付けなんだなと実感する。
ハードパニアはこうやってステッカー貼れるのやっぱいいよなぁ。
いちいちルートの説明するとき、走行ルートを見せるのが一番手っ取り早いけど、スマホで見せるようりこうやってリアル媒体の地図でみせられるほうがかっこいい。
Erzurum 徘徊
さて、そんな荒々しいエンジンを積んだテネレで エルズルムの街を徘徊スタート。
店構えが渋すぎて写真を撮っていたら、中からぞろぞろと出て来たおっさん達につかまってチャイの御馳走会が始まる。
エルズルムの標高は約1,900mと高くて、冬はウィンタースポーツも盛んらしい。まさか初夏のトルコに入ってからマイクロパフを着こむことになるとは思ってなかった。
エルズルムの中心地にやってきた。1か所から見渡すだけでも モスクやマドラサらしき建物が同じ画角に収まってくる。
Erzurum Castle
エルズルム城の近くにバイクを停めて、歩き回ってみる。
エルズルム城の城壁に沿って広がる Kale Park.
エルズルム城は、紀元前9世紀~6世紀 アナトリア東部に存在した王国 ウラルトゥにまで紀元を遡る。
地政的にアッシリアやペルシャ、ローマ、アラブ勢力とビザンツ、そしてオスマン帝国と時代と共に支配者が入れ替わってきた場所で その度に城も破壊と再建を繰り返してきたらしい。
現在の城の原型は ローマ時代テオドシウス2世の治世下 415年に建てられて、オスマン帝国時代 スレイマン1世の治世下で大規模な修復を経ている。
城の南西に建つミナレットは、11-15世紀にこの地域を支配したサルトゥーク朝のMuzaffer Gazi; ムザッフェル・ガーズィによって増設された。当時は Tepsi Minaret; テプシ・ミナレットと呼ばれていたらしいけど、19世紀に塔上部が崩壊した後の再建で時計が追加されてから、Saat Minaret; サート・ミナレット=時間の塔という意 になってる。
1071年 マラズギルトの戦いでセルジューク朝がビザンツに勝利してから、セルジュークはアナトリア・シリア・イラク(=バグダッドを本拠とした大セルジューク)・イラン(ケルマーン)で地方分権化が進んでいった。その内 アナトリア=ルーム・セルジューク朝ではベイと呼ばれる族長によって地方が分割統治されるようになって、サルトゥーク朝もそんばベイリク(公国)のひとつで、エルズルムがその中心地だったのだ。
そんなベイリク(地方公国)が乱立する中、更に政府高官であるアタベクによって実権を掌握されて半独立状態となるようなアタベク政権も出現して、この頃のアナトリアの勢力図は複雑極まって調べるだけで頭がこんがらがる。というかわけわからん。
Kale Park は芝や植木が綺麗に剪定されていて、景観を保っている。
こういう美意識があるのに、なぜゴミを平気で捨てられる人が多いんだろう。
バルコニーに干されたカーペットが生活感。
メインの通りに出西に歩いていく。
巨大なサーモバルみたいなのが気になるチャイ屋。
全ての座席が伝統刺繍のクロスでカバーされていて👍
交通警察のバイクは HONDA CBF1000!
スクリーンのトルコ警察のマーク、イスラムを象徴する三日月と星の周りのデザインが、旭日章みたいなデザインだね。
Lala Mustafa Pasha Mosque
Lala Mustafa Pasha Mosque にやってきた。
1562年 オスマン帝国統治下 当時のエルズルム知事 Lala Mustafa Pasha; ララ・ムスタファ・パシャによって建設された。
モスク入口のファサードは列柱回廊。
ハトに餌をやるおじさんorおばさん all over the world.
Yakutiye Madrasa
パシャ・モスクのすぐ隣には Yakutiye Madrasa が建っている。
やれた橙色のトンガリ屋根と、南西角に建つミナレットが特徴的なマドラサで、13世紀モンゴル勢力による陥落後、1310年イル=ハン朝の地方知事 Khoja Yakut; ホジャ・ヤクート によって建てられた。
トンガリ屋根にも細かいアーチの装飾があったり、
窓の上部に細かいムカルナスが施されてたりする。
赤と青の煉瓦が組み合わさったモザイク柄と、幾何学的に表面を這う縄のようなデザインが特徴的なミナレット。
もしかしたら、青の煉瓦は極度に幾何学化されたクーフィ体なのかな?しらんけど。
ヤクティエ・マドラサを西側からみると、
中央のイワーンには秀逸な彫刻が施されていた。
イワーンアーチのムカルナスと、中央にアラビア語の碑文。
サウジの友人に見てもらったところ、アラビア語ではあるけど、文体が古くて読めない とのこと。
イワーンの意匠。内面左右には、さらにニッチが彫りこまれて そこにもムカルナスの装飾があり まるでフラクタル構造のようになってる。
イワーンの外側に施されたレリーフは、2頭の獅子と単頭の鷲。
なんてかっこいいレリーフなんでしょう。
また通りに戻って、今度は北側の路地に入って行く。
坂の途中にあるモスクの天井に、
写輪眼みたいな目をした猫がいた。しっぽと体のツートン具合といい、只猫ではない雰囲気。
トルコに入ってから、街のいたるところにあるこのような水場。礼拝前のウドゥ(=小浄)をおこなうものとはまた別で、子供が水を浴びたり、おっさんが水を汲みにきたり、ヤギが水を飲んでたりと色々で、意外に思われるかもしれないけど 多くの場合飲むことができる。夏場トルコの街を歩き回る上では大変助かるインフラだった。
そのまままた路地を抜けて、
市内を南北に走る大通りに出る。
通の向かいにある、煙突屋根のような小さい塔とドームが連なった建物が気になる。
Rüstem Paşa Bazar
Rüstem Paşa; ルステム・パシャ という名前のバザールみたいだけど、なぜかその名前で Google Map には出てこない。
中に入ってみると
長方形の廊下全てが色んな宝飾店で埋め尽くされていた。
がっつり高そうな宝石からちょっとしたアクセサリーまで。
薄暗くて、店員たちの商売っ気も全然感じられない。
ほとんどが宝飾品だったけど、ランプや食器なんかもある。
この膨大な品の中から「何かひとつだけ」と決めて掘り出し物探しをするのも楽しそう。
エルズルムにまた来る機会があるかは分からないけど、もしそんなことがあれば 今度はそういう楽しみ方をしよう。
エルズルムは、そこまで宗教色の強い都市というわけではないらしいけど、東部の山岳都市で 歴史的な背景もあってか 保守的な雰囲気を感じる機会は多い。保守的という言葉が正しいかは分からないけど 少なくともアンカラとかイスタンブールのようなモダンさはないのだ。
謎店。
ナッツや豆類の専門店。
店内にはアクリルケースに綺麗に整理された商品が陳列されている。
ジョージアやアルメニアでみた胡桃をつかったお菓子と同じようなやつで、トルコではköme; コメ という。米ではない。
Ulu Cami
メイン通りに戻って、またやってきた Erzurum Ulu Cami; エルズルム・グランドモスク。
つくられたのは、サルトゥーク朝の治世下 1179年のベイ Nasiruddin Muhammed; ナシルッディン・ムハンマド の命による。
モスクの北側にあった3つの扉。
なんとなく、中には入らなかった。なんか、この辺のモチベーションの上下は自分でもよくわからん。
Double Minaret Madrasa
グランドモスクのすぐ隣には、エルズルムで最もアイコニックかつ、アナトリアにあるセルジューク建設の中でも最高傑作といわれる建物のひとつ Çifte Minareli Medrese; Double Minaret Madrasa がある。
北側を向いたイワーンの装飾はこれでもかといった精緻さで、ディテールに見入ってしまう。
このマドラサはルームセルジューク朝 の10代スルタン Alâeddin Keykubad Ⅰ;アラエディン・ケイクバード1世 の娘であるHüdâvent Hatun; フーダヴェント・ハトゥンによって 1253年に建てられた。ミナレットは単色のイワーンに比して赤と青の煉瓦タイルで装飾されていて、26メートルの高さがある。この写真からは分からないけど、アッラー/ムハンマド/そして日本でいうところの正統カリフ時代を担った4人のカリフの名前もどこかに刻まれているらしい。
今にも降ってきそうなムカルナス。
元来偶像を使用しないことで知られるイスラームではあるけれど、意匠にはセルジュークのシンボルである双頭の鷲がみられる。
双頭の鷲の下には、各葉に鳥を伴った生命の樹、更にその下には2頭の龍も彫られている。
アラベスク文様と、イワーン内面の左右に施されたニッチ。この作りは先の ヤクティエ・マドラサと似ている。
ポータルをくぐると、2段の列柱で囲まれた美しい中庭に出る。
四方を囲んだ壁に設けられたこの部屋、中央アジアではフジュラと呼んでいたけど トルコでは何と呼ぶんだろう。
部屋は全部で37あるらしい。
各部屋の入口はそれぞれ違ったレリーフで装飾されている。各地で目にする12花弁の紋章にも どんな意味が込められてるんでしょう?
それぞれの部屋は小さなミュージアムになっていて、
時代はまちまちだけど、数百年前の貴重な資料が多数展示されていた。
20世紀はじめ、エルズルムが一時ロシア帝国に占領されたとき このマドラサからもいくつかのものがロシアに持ち出されたらしい。
それは今でも旧レーニングラード(現サンクトペテルブルク)の美術館にあるという。たぶんエルミタージュ美術館なのかな。Glebに聞いてみよう。
1階部分の列柱回廊。
中庭の奥から、ポータル側を眺める。
中庭の柱やアーチに施された彫刻も 全て手が込んでいて見とれてしまう。
800年前のこの芸術的なマドラサは、オスマン帝国時代 ムラト4世の治世 つまり17世紀半ばに一度大規模な修復が行われている。
2011年からも 修繕が繰り返されているらしいけど、現在ではおおがかりな足場とかは無かったから 一応終わってるのかな。
マドラサを南側から見るとこんな感じで、最南部にはドーム状の建物がくっついている。
ドームの下にはやっぱり簡単な展示空間が広がっているけど 基本的にトルコ語の説明しかなくて 詳しく見るのはなかなか骨が折れる。
Three Kümbets
街を走る馬車、石造りの家、古いモスクのミナレットから流れるアザーン、
日本人にとっては異国を象徴したような雰囲気の中 ダブルタワーマドラサの南側にまわっていくと、
Three Kümbets という場所がある。
その名の通り、かわいらしいトンガリ屋根の小さな建物が3つ並んでいるのだけど、これはどれもお墓で、
一番西に位置しているこのお墓が Emir Saltuk; エミール・サルトゥクのお墓で、3つの霊廟の中では一番ユニークな構造をしている。
八角柱の各辺は途中で屋根のようになって、そこから円柱に変わり、キノコのようなドームで蓋がされている。
現地の看板には「13世紀の終わり イル・ハン国の治世下で建てられた」とあったけど、おそらく間違いで 多くのサイトでは12世紀後半に建てられたと説明されている。そもそもEmir Saltuk が誰なのか正確にわからないんだけど、たぶんサルトゥーク朝創始者の Ebü’l-Kāsım İzzeddin Saltuk; サルトゥク1世のことで、それも研究に基づくというより 地元の伝承に基づいているらしい。
そして東側に並んで建っている他の二つの霊廟は、現地の看板ではやっぱり「14世紀初頭、イル=ハン朝の統治下で建てられた」と説明されていた。この2つの墓に関しては 誰のためのものだったのか、正確にいつ建てられたのか 未だによく分かっていないらしい。
この時代になっても、まだまだ未知のことが多いのは なんだか嬉しいね。
Paşabey Konağı
そんな「3つの霊廟」と、通りを挟んですぐ向かいに何とも歴史を感じる家があったので覗いていると、おっちゃん、というかじっちゃんが中に招き入れてくれた。
パシャベイ邸とよばれるこの屋敷は、約300年前に建てられたままの状態が保存されていて オスマン帝国時代の暮らしを今に伝えている。
重厚な鉄製の扉も当時のもので、
男性用/女性用に分けられたノッカーや、扉の鍵もオスマン帝国時代に使われていたもの。
1階、入口から入って右手に広がる部屋。
調度品や食器なんかも、当時のものが揃えられていて、
エルズルムの伝統的なキッチンが再現されていた。
この部屋の天井は、釘なんかを一切使用しないウォールナット製の木組みで構成されてる。
階段をのぼって2階に行くと、応接間があって
天井にはこれまた見事な木彫りが施されている。
廊下を通ってまた別の部屋に行くと、
広いリビングにつながっている。
美しいトルコカーペットや、雪深いエルズルムで使われていたであろう日本の”かんじき”のような履物も見える。
案内してくれたじっちゃん。おそらく、この屋敷を管理しているAkgül; アクギュル家の人なのかな。
ターコイズブルーに塗装されて、そこにも彫られた意匠が特徴的な木枠。
チャイまでご馳走してもらっちゃって 屋敷を後にするのであった。
ありがとう、アクギュルのじっちゃん。
cağ kebabı
さて、街歩きも概ねこんなところかってところで、エルズルムの名物といわれる cağ kebabı; ジャーケバブを食べに行ってみようと思う。
トラブゾンでオイル交換をしているとき、たまたま居合わせた地元のライダーから教えてもらったのだ。
市内のやや北側に歩いて行ってみると、ジャーケバブが食べられる店がいくつか集中している。
アフガニスタン出身のおっちゃんが、焼鳥屋の店主ばりにがんがんケバブを焼いてくれる。
ジャーケバブは、言ってみれば わんこそば形式で、串に刺さった肉をどんどん持ってきてくれるから、もういらないってところでストップする。
そのまま食べてもおいしいけど、この薄い生地に野菜と肉を一緒に包んで食べても👍👍
通常のシュワルマとかドネルに比べるとやや高いけど、エルズルム県に来たならマストトライな食文化だ。
1日中歩いて疲れ切っていたけど、ジャーケバブを食べて腹いっぱいになって、夕暮れのエルズルムを宿に戻る時は なんとも言えない幸福感に包まれていた。やっぱ人間しっかり食べなきゃだめよね。
ってなわけで、とりとめもないエルズルム徘徊録でしたー。
おまけ
街を徘徊中に出会った、イタリアからのライダー Michael.
奥さんと一緒に、旧式のアフリカツインに2人乗りで旅をしている。出会ってからほどなくして彼らはイラン入りしていた。今はどこにいるだろうか。
つづく