【Republic of Armenia episode17】アルメニア北部回帰 怒涛の修道院巡り ~part2

こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

アルメニアからジョージアへと再入国するにあたって、北部にある素晴らしい遺構巡りを続けていきます。

Odzun Church

Debed; デベド川沿いのハイウェイから、

山岳道路へと逸れて、Odzun; オズン の村へ向かう。

Odzun Church; オズン教会へやってきた。

光を浴びてややオレンジ色に輝く壁面が美しく、特徴的な教会だ。

敷地内のモニュメントや墓石。

教会正面ファサードと入口。
教会の周囲は、南北と西の3面を壁が取り囲むような、今まで見たことの無い独特な構造をしている。

西側の扉と、上部の意匠は聖人と天使のように見える。

教会を取り囲む壁によって作られた周囲の回廊、西の扉から南北をみる。

北側と南側の回廊。

回廊部分に埋め込まれた石棺。

教会の北東、南東の角には モスクのミナレットのように鐘楼が備わっていて、これは19世紀に増築されたもの。
鐘楼は別棟か、あるいは西側のガビットに伴うことが多いアルメニア教会では 少し特殊な構造だと思う。

教会内部。この地に最初に教会が建てられたのは500年代と古く、その後オズン出身の当時のカトリコスによって700年代前半に再建された。現在は2012-14年に行われた大改修の跡の姿となっている。

東側主祭壇にはイエスを抱く聖母のイコン。たぶん、近年新たに描かれたような印象。

ドーム下面。

南北の壁面。

教会の裏側(東側)のファサードと、中央窓の意匠。2人の天使を従えたキリストが福音書を広げている様子のようだ。

Sanahin Monestery

オズンの街から一度ハイウェイに下り、少し北上した場所から今度は Sanahin; サナヒンの街へと山道を上っていく。

サナヒンの街は、ジョージアからアルメニアに入国した時に感動した廃銅山の街 Alaverdi; アラヴェルディ とDebed; デベド川を挟んで対岸に位置している。

山岳路を上った上から、デベド川によって隔てられる深い峡谷と、それに沿って走るハイウェイがよく見える。
一見放棄されたように見える貨物船は、しっかりと現役で走っていた。

サナヒンの街に入り、坂だらけの路地を上っていく。

そうして、Sanahin Monastery Complex; サナヒン修道院へやってきた。テネレをお土産屋の前に停めて、更に階段をのぼっていく。
サナヒン修道院の構成物は、以前紹介したゲガルド修道院と共に世界遺産に登録されている。

サナヒン修道院を構成する建築物群は、900年代から1200年代にかけて 約3世紀にわたってつくられていて、全体像はけっこう複雑だ。
敷地内に入ってまず目に飛び込んでくるのは北西に位置する長大な鐘楼。
1200年代前半に増設されたもの。

内部には入ることができなかったけど、中は3階構造になっているらしい。西側ファサードに埋め込まれた赤い花崗岩の十字架が印象的だ。鐘楼の入口の周りには、2羽のハトが彫刻されていた。

頂上の鐘楼は6本の柱で支えられている。

鐘楼につづいて、南側へ目をやると まるで群馬県桐生の鋸屋根のような4連の列柱構造が並んでいる。

手前の3連鋸屋根のスペースは この奥にある St. Astvatsatsin Church; 聖母教会 のガビットで、1211年に増築された構造物だ。

聖母教会ガビット前に鎮座する立派な2つのハチュカル。

聖母教会ガビット内には東西に並ぶ5対の柱と、それによって形成されたアーチで美しく構成されている。

聖母教会ガビット内、東側から西側を見る。

床面には沢山の墓石が並び、足の踏み場に困る。この修道院の建設に関わって来たアルメニアのキウリケ朝、ザカリアン朝、そして数々の修道士たちの墓が眠っている。

聖母教会ガビットにある3つの身廊の内中央東側に開く教会の入口。

教会内部。ここが、この建築物群の中で最も古い St. Astvatsatsin; 聖母教会で、930-950年頃、バグラトゥニ朝の4代君主 Abas Ⅰ;アッバース1世の治世でつくられた。

蝋燭の光と、窓から入ってくる光のみで照らされる薄暗い空間。

ドーム下面。

祭壇と、その前に広げられたアルメニア語の聖書。

一度ガビットへ戻り、今度は南側の身廊をみてみる。

ここは Academy; 神学校 とよばれている空間で、11世紀前半頃につくられたと考えられている。

各列柱の間の石段には学生が座り、神学以外にも 哲学や医学、暦学などさまざまな分野を学んだという。
当時は Grigor Magistros; グリゴール・マギストロス という教師がここで教鞭をとっていたらしい。

アカデミー東側に置かれたハチュカルと、南側壁面の碑文。

さて、ガビットの南側に開いた別の入口を入っていくと、

そこは、敷地内で最も南西に位置するまた別のガビットとなっている。
980年頃、この奥にある St.Amenaprkich; 救世主教会 と、先の聖母教会には共通のガビットがあったらしいけど、1181年に行われた大改修の際に、このガビットが新たに新設された。

救世主教会のガビットドーム下面。

こちらは重厚な4本の柱で支えられていて、

それぞれの柱には特徴的な彫刻が随所に施されている。

救世主教会ガビットの柱の意匠。

救世主教会ガビットから、東側をみると 教会への入口がある。ドームの頂上には、、、猫??

St.Amenaprkich; 救世主教会 内部。ここは、バグラトゥニ朝 5代君主 Ashot Ⅲ; アショット3世 の妻 Khosrovanush; ホスロヴァヌシュによって966年に建てられた、この施設で2番目に古い構造物。

内部に入るとそのダイナミックな空間に思わず息を吞んだ。天井は高く、施設内で最大の空間の中にいるはずなのに、八方を囲んだ重厚な石からの圧力を感じる。ブドウとクロスをあしらったシャンデリアも美しい。

祭壇と、そのカーテン中央に置かれたハチュカル。

教会の四隅を固める頑強な柱。

ドーム下面。

壁面の至る所に彫られた碑文や十字架。

救世主教会の裏、東側ファサード上部には2人の人物が彫られている。これは、バグラトゥニ朝6代君主 Smbat Ⅱ; スムバト2世と その弟である Kiurike Ⅰ; キウリケ1世 が向き合う図で、979年、現在のロリ県を含むタシル地方を兄から譲渡されることでキウリケ朝がはじまったのだ。

さて、また 聖母教会のガビットに戻り、

今度は北側の身廊奥にあるアーチへと進んでみよう。

一度外に出て、東側に見える尖がり屋根の建物は Matenadaran; 図書館だ。

図書館の南側にくっつくポルチコと、

そこに並ぶハチュカル。

壁面の碑文と、ポルチコの南側を形成する列柱。

図書館に入ってみる。

1063年につくられたというこの空間は、4方の壁面中央の柱と、それぞれを繋ぐアーチで形成されている。

ドーム下面。

それぞれの柱に施された独特の意匠。

図書館から、ポルチコを通って南側に出ると、1061年に建てられた St. Gregory Church; 聖グレゴリー礼拝堂がある。

聖グレゴリー礼拝堂、西側ファサードに埋め込まれたハチュカルと、

入口アーチ上部の装飾。

礼拝堂内部。

グレゴリー礼拝堂から出て、敷地の南東側に進むと そこは広大な墓地となっていた。ここにも、ザカリアン家の墓や Hakob; ハコブ教会などがある。

東側からの全体像。左から、救世主教会、聖母教会の東ファサード その間にアカデミー、右に図書館のポルチコが見える。

10世紀半ばより、イスラーム勢力(セルジューク朝)と東ローマ帝国の版図の硲で、そしてモンゴル帝国やティムール帝国の侵攻に脅かされながら 時に属国となりつつもこの地を治めて来たアルメニア貴族たちの勃興と衰退を目撃してきたサナヒンの修道院、とても見ごたえのある遺構だった。

Sanahin Bridge

いやぁ~ それにしてもサナヒン修道院のボリュームがすごかったなぁ と余韻に浸りながら再び山道を下っていく。

一度 デベド川を渡って、入国時に感動した Alaverdi; アラヴェルディの街に再びやってきた。

40年前から時が止まったようなこの雰囲気が、やっぱり好きだ。
住んでる当事者からすれば、開発の手がまったくまわらず たまったもんじゃないんだろうけど。

アラヴェルディの街の奥に架かる、Sanahin Bridge; サナヒン橋 にやってきた。
この橋は12世紀後半につくられて以来、修復や補強を繰り返している。
製作に携わったのは やはりザカリアン朝の人物だった。

石段をのぼって、

橋の上からデベド川を眺める。

Kanchaqar Camping RV

サナヒン橋を見た後、アラヴェルディの街で軽く飯を食っていたら、
「この街はダメだ・・・ だからおれはエレバンで働いてる!日本は素晴らしい国だ!」
というおっちゃんの愚痴に付き合う事小一時間。

すっかり暗くなってきてしまったので、今日のところは寝床を探すとしよう、、、

ハイウェイ沿いはよろしくないので、Haghpat; ハフパットの街にのぼっていく道脇にでも良いスポットがないかと探していると、
ちょうどキャンピングサイトを発見した。

誰もいなそうで諦めかけた時、ゲストで来ていたドイツ人のが気づいてバックパッカーが気づいてくれて、無事チェックインできた。
テントを設営して写真の整理をしていると、

オーナーが焚火を始めたから皆で囲んでそれぞれの国のことや旅の事を話した。
まさかここに来てこんな機会にめぐまれるとは、ほんとに旅は予定”不”調和の連続だ。

つづく

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