【Republic of Armenia episode16】アルメニア北部回帰 怒涛の修道院巡り ~part 1

こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

ギュムリの街から少し離れた場所で野営地を見つけ、無事朝を迎えました。
ここから、国境道路へと戻っていきます。

Eghjerva の麓で

早朝はフライの結露が激しかったけど、日が昇るとすぐに乾燥してくれた。

Eghjerva という山の麓に位置するようで、ハイキングコースのような道が谷間につづいている。

天気が崩れ出したりしないうちに、撤収→出発。

国境道路へBack

しばらくは東へと向かうハイウェイを進む。
途中、丘の上にギラギラと光る教会を発見。

Pambak川に架かる橋を渡って、丘を上っていくと

これまた絵本に出てくるような小さな教会だった。

誰もおらず、番犬が一頭のみ。ずいぶん新しい教会なのか、修復したてなのか。

丘の反対側を見ると、Pambak川と併行して東西に走る鉄道の線路と架線が見えた。

途中から北上する道へと乗り換える。今日は天気が崩れる心配は、なさそうだ。

途中、Gyulagarak という街にて 廃墟となった教会を発見。
後から調べると Gyulagarak Church というらしい。

とても情報が少ないけど、建設されたのは1874年。ソ連時代に穀物倉庫として使用されていたときに火災にあってしまったらしい。いわゆる粉末爆発ってやつか・・・。

その後、1988年の大地震で更に崩壊後 修復されることなく放棄されて今に至るとのこと。

ガビット内の入口。

教会の屋根は完全に消失している。

壁面の碑文やハチュカルたち。

住宅地に突如あらわれた廃墟にテンションあがった。もしもこのまま修復作業が行われないのであれば おそらく100年後にはただの瓦礫のような状態になってしまうかもしれない。廃墟が廃墟として魅力を放つのも 絶妙なバランスが保たれるわずかな期間なのかもしれない。

Hnevank

さて、この辺りから国境まではわずか数十キロだけど、散在する遺産クラスの修道院を 見逃すわけにはいかない、というわけで、怒涛の巡礼がはじまる。

道中親子連れと出会い、少年に日本製バイクの素晴らしさを啓蒙しといた。

途中からダートになり、極上の景色を眺めつつ スローペースで進んでいく。

極上フラットダートじゃん、とかぬか喜びをしていると、けっこうロッキーになったりもする。

そして途中から、「うん これは無理」ってな道になったから、テネレを置いて歩いていく。

特にこういうぬかるみ急傾斜は、1人では間違いなく突破できない。

そんな道を歩いていくと、現れた Hnevank; フネヴァンク修道院

手前にある大きな倉庫のような廃墟。
修道士たちの住居だったと考えられている。

内部。この雰囲気、最高。

そしてその奥にある教会。つい近年、アルメニア政府によって修復されたばかりだけど、もともとの教会は7世紀の建設と、非常に古い。
残されたジョージア語の碑文から、12世紀には 今までの記事でも何度か登場したアルメニア貴族 オルベリアン家によって再建されている。

教会の裏手(西側)に回り込むと、

そこにはまだ修復されていない部分も多い。

ドーム傘下の意匠。

教会、西側から東側の概観。けっこう複雑な構造をしていて、それぞれ建設された時期がバラバラなようだ。

ドーム下面。

メインの祭壇と、側廊奥のキャンドル。こんな辺鄙な場所だけど、キャンドルを見るにここ数時間で何人もきてるんだろうか。アクセスはまじで悪いと思うんだが。

南側の列柱空間。

南側のファサード。

南ファサード西側に開いた窓枠の意匠。

教会の更に西側にある、厩舎のような建物。

見事に石が組み合わさってアーチを形成している。

教会西側のやや北寄りに併設される礼拝室、

とその内部。

厩舎のような建物と教会を繋ぐ通路に置かれた列石群。

なんともアクセスの悪い渓谷の崖上に、ひっそりと佇む半崩壊様の修道院。人もおらず 個人的にはこういう雰囲気が一番好きかもしれない。

その後テネレのとこまで戻るのがまた大変だったけど・・・.

Allou との出会い

再びダートを走って、東方向へと進む。

特に空気圧を下げてない時は、いきなり出現する深めの砂利にリアが滑ったりして冷や汗をかく。

放置されてるのか、現役なのか よくわからないけどめっちゃカッコイイ色のGAZ-21.

Dzoragyugh という村にて。
ソ連感満点のトラックや、

石造りの家々の写真を撮っていると、

おっさんが家の中から出てきて、色々と話しかけてくるが全く分からん。
とりあえずジェスチャー的に「コーヒーでも飲んでけ」と理解して、基本急いでない時は断らないをモットーにお邪魔する。

おっさんの名前はおおむね Allou. 庭でLadaのシリンダーヘッドを広げて修理しているところだった。
ここまで自分でやるのが、彼らにとっては普通なのかね・・・
腰上までバラすとなると、専門店に依頼ってのが普通の価値観だけど、それほどLadaの構造がシンプルだってのもある。

アルメニアコーヒーと、このリンゴでつくったというお菓子が超絶おいしかった。これ、売ってないのかな、本当に超おいしかった。

Allou と。小一時間 色々とご馳走になりました、ありがとう。

Kobayr Monastery Complex

Allou に別れを告げて、

おそらく二度と走ることはないであろうこの素晴らしい道を堪能する。
少し雲が出てきて、陰りと晴れを繰り返す。

そして遂に舗装路に出た。この道は、ジョージアからの越境時に通った道だ。

いい感じの廃屋があるなぁと思って写真を撮っていたら、バルコニーにおばあちゃんがいた。失礼しました。
手を振ると、投げキッスのジェスチャーで答えてくれた。しかし、今写真を拡大して見ても、バルコニーには誰もいないなぁ、もしかしてあれは亡霊だったのかもしれない。

Debed; デベド川沿いの道は、

相変わらず廃墟(?)となった遺構で脇が固められている。

そんな舗装路から、脇に入っていく細い道がある。
テネレで行けるか甚だ怪しいけど、一度歩いて様子を見てみて、「う~~ん、なんとかなるっしょ」とテネレで突っ込むことにした。

千と千尋の神隠しで、異世界への入口となっていたトンネルのようなゲートをくぐる。

いやー、やっぱりこの道はフル積載大型ひとりで来る道じゃない・・・

とはいえもう引き返す方が厳しいとこまで来てしまった故、おっかなびっくりしながらなんとか進んでいくと、

森の中から突然現れる崖の端に、Kobayr Monastery Complex が聳えていた。

ヒヤヒヤの思いで崖下まで辿りつく。

そこからは、まるで山奥に潜む神社の参道のような道をのぼって、

のぼって、

崖の上に出ると、ようやくこの修道院内にアクセスすることができた。

ほとんど岩肌と一体化したような西側の入口と、

その意匠。

そのまま東側に進むと、鉄骨で支持が組まれた祭壇部にフレスコ画のイコンが残る。ちょっと前までは鉄骨支持はなかったみたいだけど、養生で常設なのか、あるいは修復のための足場なのか・・・?
教会がつくられたのは1171年。中世アルメニア王朝のバグラトゥニ家の分家によって建てられたという。フレスコ画が描かれたのは、それよりも後、ザカリアン朝によって買い取られた後のことらしい。

教会の北側にある小さな門をくぐる。

崩壊したままの教会の残骸が散乱するなか、

北側から教会をみる。門の脇にはジョージア語の碑文も残っていて、これは教会が1270年ごろ ジョージア王室に仕えるザカリアン朝によって買収されたことによる。ザカリアン朝によるものといえば、以前紹介したゲガルド修道院のカトギケ教会も同じだ。
教会のすぐ北側に、礼拝堂が併設されていたけど、中には入ることが出来なかった。

その礼拝堂の入口。鍵がかかっていた。

教会の更に東側にある小さな礼拝堂と、

その入口。

内部の東側。

崖脇に行って下を見下ろすと、テネレがあんなに小さい。ひぇぇぇーーーー!

教会の北側に目を向けると、鐘楼と 長方形の建物がある。

鐘楼と、

その下にあるキューブ状の建物は、Zakare Ⅱ Zakarian ;ザカレ2世の息子である Shahnshah Zakarian; シャーンシャー とその妻 Vaneni Zakarian; ヴァネーニ の墓を収容するために 1279年につくられた。

鐘楼上部と列柱。

その隣にあるこの建物は、何なのかよくわからなかいけど、向いてる方角的に礼拝堂ではなさそうだから、きっと修道士の住居かなにかだったんじゃないかな。

森奥の崖上に潜む、なんとも不思議な空間だった。またあの細い林道をヒヤヒヤしながら戻り、異世界トンネルも無事に通り抜けて現世という名の舗装路に戻って来た。

ここから国境まで、まだまだ見どころがある おそるべきアルメニア・・・

つづく

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