【Republic of Armenia episode 3】ノアの方舟は実在した…? エチミアジン周辺の教会群を巡る

こんにちは、グレートエスケープ中の管理人です。

アルメニアの首都 エレバンに到着する前に偶然出会った Armen家の庭を拠点に、周辺を徘徊します。

Saint Hripsime; 聖リプシメ教会

朝、Armen家。
砂利の上に設営すると、草の上の方がいいんじゃない?と言われるけど コットがある上はほとんど路面状況が関係ない。
むしろ雨の後はグランドシートへの影響を優先して考えられるのだ。軽量ガチ勢からは疎まれがちなコットが、2年近く経った今でも日本送りになっていない所以である。

朝のアルメニアンコーヒーは目覚めに👍

кошка.

キャンプ系の荷物は家に置かせてもらったまま、少しエレバンの西郊外へ移動する。

やってきたのはSt.Hripsime; 聖リプシメ教会。

教会の周囲は広大な敷地になっていて、一部花壇が綺麗に整えられていた。

西側を向くガビットと壁面の扉。

東の裏側からと、ドーム部分。教会の壁面には、4面とも縦長の2本の溝があるのがわかる。

ガビットとその上にある鐘楼は、それぞれ1653年 1790年の改修時に追加されたもの。

聖堂内。祭壇下部には聖人像が並ぶ。

聖堂内に置かれた、初期の石の扉。

 

写真ではわかりづらいものの、聖堂の壁面はニッチという掘り込み構造になっていて、それぞれ外壁から見られる2本の溝の間に位置している。

聖堂の北東側に位置する小部屋には、この教会の由縁となった聖リプシメの墓がある。

当時ローマのディオクレティアヌス帝から迫害を受けてアルメニアの地に仲間の修道女と共に逃げてきた聖リプシメは、アルメニア王ティリダテス3世からの求婚を断り拷問の上殺害された、これが3世紀の終わりごろ。アルメニア使徒教会史上最初期の殉教と考えられている。この後、良心の呵責か あるいは聖リプシメの呪いなのか、ティリダテス3世は頭がおかしくなったらしく、啓蒙者グレゴリウスの助けによって容体が快方したことによりキリスト教がアルメニアの国教となったのだ。元々、この啓蒙者グレゴリウスを地下牢にぶち込んで15年間も監禁したのがティリダテス3世その人だから、なんとも慈悲深く 同時に皮肉な話である。アルメニアがティリダテス王のもとでキリスト教を国教化した301-302年頃、時期を同じくして 懺悔の念のもとつくられた聖リプシメの霊廟が、この教会の由縁となる。

この時期、ローマとペルシャの緩衝地帯であったコーカサス地帯は、常に両者の思惑の中で王が戴かれていた。元々はパルティアに血脈をもつティリダテス王を擁したアルメニアだけど、結局はローマ属州というポジションに甘んじたが故か、パルティアに取って代わったペルシャの大帝国ササン朝によって聖リプシメの霊廟は破壊されてしまった。
それが、「アルメニアのイサク」として有名な当時のカトリコスによって再建されたのが395年。395年の再建された霊廟から、更に聖リプシメの遺骨を移す形で やはり当時のカトリコスであるコミタスによって教会が建設されたのが618年で、これが現存する姿の元となっている。7世紀の姿が今なお残る、同国最古の教会のひとつなのだ。

Etchmiadzin Cathedral; エチミアジン大聖堂

そのまま少し西に行って、Vagharshapat;ヴァガルシャパトの街の中心にやってくると、ここには Etchmiadzin; エチミアジン大聖堂がある。

東側のゲートにある、レリーフは、先のティリダテス王と啓蒙者グレゴリウスのもの。この2者のイコンやレリーフは、アルメニアがキリスト教を国教とした重大なイベントのため あらゆる場所で目にする機会がある。

敷地はまじで広大だ。建物も沢山あってなにがなんだかわらない。ソ連時代に整備された関連施設が美しく立ち並ぶ。

教育施設や、

今まで見て来た古い修道院とは一味違った、スタイリッシュな印象の St. Vardan & St. Hovhannes Chapel と、

なんだかビミョー――に傾いてるようないないような Holy Archangels Church など も敷地内におさまっている。

敷地内に展示されるハチュカルたち。

そして敷地内のほぼ中央に鎮座するのが、アルメニア使徒教会の総本山(カトリックでのバチカンに相当)であるエチミアジン大聖堂で、現カトリコスであるガレギン2世の居住するカトリコス座なのだ。

これは東側の門側からなので、教会の裏側になる。

西側から。重厚な鐘楼を上部にもつガビットと、それにつづく大聖堂。元々は、啓蒙者グレゴリウスによるティリダテス王の改宗と、キリスト教の国教化がなされた300年の頭につくられた、世界最古の大聖堂のひとつだけど、現存する建物は15世紀半ばに再建されたものがほとんど。2024年現在でも、まだ改修工事はつづいていて、内部に入ることはできない。

そんなエチミアジン大聖堂の関連施設の中で是非訪れたかった宝物館。
宝物館とその入口は離れていて、その間 カトリコス居住地を通ることになるので、厳重に写真撮影を禁止するために付き添いが付く。

アルメニア総主教座の宝物館にしてはあっさりしていて、しかもほとんど説明書きがない。

わずかに説明書きのあるものから察するに、コンスタンティノープル(現イスタンブール)~インドにかけて、17~19世紀の宗教関連装飾品が多い。

このカーテンに描かれた図柄も、啓蒙者グレゴリウスとティリダテス王の改宗の場面だ。

正直なにがなんだかよくわからなんだけど、宝石の象嵌された精密な銀彫刻の施されたブックカバーが一番のみどころ・・・

ではなく、この宝物館で一番のみどころはこの2つ というのが定説。左の十字架の奥のはめ込まれている木片は、なんとあの「ノアの方舟」の残骸で、右の槍先は、磔となったキリストの絶命を確認するためにその脇腹を突いた「ロンギヌスの槍」だという。
まぁ真偽のほどは誰にも知る由はないけど、最古のキリスト教国の総主教座にあたるこの場所で 実際にこういった伝説の品(と主張されているもの)を見ることが出来たのはよかった。

敷地内にあったけっこう大型のお土産屋さん。

キリスト教徒でなくてもなんだか欲しくなってしまうような小物が沢山。

いつも思うんだけど、お土産屋は「ここでしか手に入りません」コーナーをつくって欲しい。
「せっかくここに来たんだし、買っておこうかな」 とか思って買ったお土産が、空港に売ってたら嫌だもんね。

Saint Gayane; 聖ガヤネ教会

同じくヴァガルシャパトの中心部、エチミアジン大聖堂のやや南にある Saint Gayane; 聖ガヤネ教会にやってきた。

17世紀頃に増設された長大な門をくぐると、

聖ガヤネ教会の正面ファサードに出る。鐘楼を伴ったガビットのような構造はなく、3連のアーチで囲まれた前室構造が特徴的だ。

アーチ天井部分。

教会北側の壁面。

聖ガヤネは、先の聖リプシメと共にローマから逃れて来た修道女たちのリーダー的な女性だったらしく、聖リプシメと同様この地で拷問の上殺害された。聖リプシメ教会が教会として築造されたやや後の630年 カトリコスのエラズ1世によってつくられたというから、やはり最古の教会の部類になる。
教会内にはやはり聖ガヤネの石棺が安置されているらしいのだが、、、なんだ 4月は結婚式ラッシュなのか?ここでも結婚式が執り行われていて、教会内部を見学することができなかった。

敷地内のハチュカルや墓石。

Zvartnots; ズヴァルトノツ聖堂跡

またヴァガルシャパトの街から東に戻る。ちょうどエレバン中心部から15km程度の場所に Zvartnots; ズヴァルトノツ という遺跡がある。

管理人が訪れた時は、なにやらお祭り騒ぎで 古の情緒もクソもあったもんじゃなかったけど まぁこれはこれで一期一会。
白Tの男が弾いてるのは Tar という伝統弦楽器で、イラン高原~中央アジア、コーカサス~トルコにかけて 広い地域で見られる。今回はピックアップが取り付けられた Electric Tar のようだ😮

奥に行くと、まるで古代ギリシャ神殿の遺跡のような列柱群をみることができる。

これは 652年、やはりカトリコスであったネルセス3世によってつくられた聖堂の廃墟なのだ。7世紀半ばは イスラム共同体がササン朝を破り、そのままビザンツ帝国の版図にまで勢力を拡大しようという激動の時期。そんな時代の真っただ中に いずれの大国に属するかを迫られる硲で建てられた聖堂というわけだ。

面白いのが、未だに立ちつづける柱の柱頭部分に施された意匠。
中世のキリスト教建築というよりは、古代ギリシャやローマの神殿の列柱を連想するようなイオニア式の形をしている。中には鷲の彫刻もみられる。

併設の資料館には、ズヴァルトノッツ聖堂に関する多数の資料が展示されていて、

これが崩壊前の聖堂復元模型。ズヴァルトノッツの聖堂は 建設後に巨大な地震に見舞われて崩壊した後、なぜか誰にも修復されることなく現在に至り、結果として現在のような廃墟と化しているらしい。

資料館を出ると、さっきまで演奏がおこなわれていた場所で、今度は伝統的な民族衣装を着たアルメニア人が舞踏を繰り広げていた。
笛と太鼓のリズミカルな音楽に合わせて、男性陣は飛び跳ねたり、お互いに肩をぶつけあったりする。

女性陣は、その脇で一列に並び、同じく音楽に合わせてダンスを踊っていた。

つづく

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