【自分の価値観を持つことの大切さ】金持ち父さんだろうが貧乏父さんだろうが

こんにちは、世界放浪2輪旅を目指す管理人です。

突然ですが、
「あなたはお金持ちですか?」
と聞かれたら なんと答えますか?
おそらく 多くの人は
「いやぁ~ 全然全然 ほんと生きていくので精一杯ですよ」
とか言うのかもしれないし、
「まぁー 生活には困ってないけど お金持ちかって言われるとねぇ・・・」
とか言うのかもしれません。

現状日本で年収が1000万以上あるのは全体の5%程度といわれており、それを考えると多くの人は少ない給料で何とか日々をやり過ごし、わずかな貯蓄やたまのボーナスに一喜一憂して終わりのないラットレースを無意識に歩んでいるということです。
国からしてみれば、何の疑いもなくそのラットレースを淡々とこなし税金を納め、働けなくなったらさっさと死んでくれる国民が一番ありがたいわけで、ひどい事を言うようですが、これが事実だし、構造上それは仕方ないでしょう。

ただ、一部のかしこい人達は ある程度自分のことを客観視してみて、以下のことに気づきはじめます。それは、

・自分が終わりなきラットレースを走っていること
・お金のために自分の時間と労働を対価として犠牲にしていること
・人生が自分のコントロール下にないこと

これはつまり、いわゆる“労働者”の特徴です。
そこで、このような人たちは色々なことを考えます。
自己啓発本を読み漁ったり、セミナーに参加したり、副業をはじめてみたり、独立を考えてみたり。
中にはいきなり投資に手を出して痛い目を見るひともいるでしょう。
賢明な人は、おそらくまずは自分の仕事を自分のコントロール下に置くことから始めます。つまり、“自営”ですね。自営の大きなアドバンテージは、仕事に対する裁量が自分の手中に握られることです。例え労働者の時より収入が少なかったとしても、これは大きな違いです。
自営が軌道に乗り、様々な人脈や経験値を培った人は、次に事業を立ち上げるでしょう。事業とは、つまりビジネスです。末端の労働力として自分は関与せず、上流からそれらを管理することで「権利収入」を得るようになるわけです。
これはつまり“事業主”という状態で、自分の時間・労働力は対価とせず、自由な時間を確保したまま収入を得ることができるような状態といえます。投資とは、本来ビジネスにて資金力を得た人か、資産家など元々の金持ちが、それを更に増やすために行うものかもしれません。いわゆる「自分のためにお金を働かせる」という最終的なステータス“投資家”でしょう。

さて、こうやって見てみると、まるで小学生が中学生になって、そして高校から大学へ進学して というレールのように、我々には社会人として上らなければならない階段が膨大に積みあがっているのではないだろうか と思えてきます。
実際、こういったステップを、マーケットの判断とセールス、広告と集客の効率化、そして節税、とクリアして上っていく人もいるでしょう。
逆に 今のままで幸せだから労働者のままでいいや、と思うひともいるでしょう。

あなたは、どうするべきだと思いますか?

結論としては、そんなことはどうでもよいことです。

多くの自己啓発系メディアやブログでも
「ほら、わかったでしょ、あなたは労働者なんだよ、早く気づいて上を目指さなきゃ!」
という流れへ帰着させるばかりで、現状に甘んじるという選択肢を与えません。
純プロレタリアートであっても、人と接し、家族に囲まれ、貧しいながら無意識に幸せを謳歌している人はいます。金持ちは、これを所詮貧乏人の戯言と言いますが、それが真心なのか虚栄なのかは本人の価値観にしか測れないことです。
そして、ビジネスオーナーとして富と名声を築き、投資をして金を働かせ、益々の巨万を生み出す力があっても、孤独で、自らの不幸に気づいてすらいない人もいます。勿論これが不幸なのかも本人の価値観で測ることなのですが、残念な事にこういったケースでは本人が自分の価値観と思っていることが遠い昔に社会的な価値観とすり替わっていることが甚だ多いです。

よくないのは
そもそも自分の現状すら客観視することのできない無思考状態、
そして更にヤバいのは自分の人生観や価値観とは乖離した基準に翻弄され、ブルジョアジーを目指すことでしょうか。
例えば、親に言われて、友達が成功してるから、見栄で、SNSの啓発動画に触発されて、、、などなど。

自分の人生というのは、多くの人が思っているほど大したものではないと思います。
シミュレーション仮説にのっとってしまえば、自分の選択ですらないものの集合体でしかないし、一方でぼくらが教わってきたビッグバン以降の一連の流れが事実だという仮説に立ってみても、その偶然の産物の中のひとつでしかありません。
このような立場にたってしまえば「生きている意味」なんて概念自体が成立しないわけなので、雑な言い方をしてしまえば自由ゲームを与えられたようなものです。誰だって自由意志で出生を選択し存在している人はいません。

その自由ゲームの中で「自分が良いと思うこと」や「信念だと思えること」を見つけることや、そういった装備を糧に自分の人生を強い力でコントロール下に引きづりこんでいく作業こそが、管理人が思う 人がやるべきことです。ともすれば、偏った考え方や極端な固執につながりかねませんし、途中で間違いだと気づくこともあるでしょう。別にそれでもいいと思います。
大事業主として名を馳せても、末端の労働者に甘んじても、社会人を辞めてほっつき歩くのでも、各々によってOKなら、同じことです。

「比較解剖学」という学問に、のめり込んだ時期がありました。
人間と他の動物がどのように違うのかというのを、マクロの形態学で突き詰める学問です。
ゲノムの解析が進み、インパクトファクターの大きい論文は普くミクロの世界が主役である昨今、完全にオールドファッションな学問です。母校である医科歯科大でも、国家試験に出題されないという理由で教育課程から消えました。
標本室に籠り、様々な動物の頭蓋骨と人間の頭蓋骨の比較をしていると、ヒトという生き物がいかに特殊であるかが見えてきます。勿論その特殊性は、頭蓋骨だけで語れるものではありませんが。
生物の進化の枝の中には時折「過剰進化」という現象がみられます。特に形態においては、古代のディクラヌルス属という三葉虫や、現代でいえばツノゼミの類など 明らかに本来必要である範疇を超えた形態をしていることなどがその代表例です。現代文明人類の活動はどうでしょう?これは「進化」という現象の項目として簡単に勘定できるものではありませんが、ヒトが本来生きていく上で必要な本質とは全くもってかけ離れた事象が、現代人の心のどれだけ多くを占めていることか。完全な自論ですが、これもヒトの成した過剰進化のひとつの形なのかもしれません。
自分の価値観を持たずに生きるということが、人間社会という過剰進化の賜物が生み出したひとつのカタチであると、管理人はツノゼミの異常な形を見る度に思うのです。